ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ミハイル・カラシニコフの死は後世どう評価されるのか

 「愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ」(箴言26:8)
*ただの小石で足りる石投げ器に、貴重な石をつがえるのは、愚か者に栄誉を与えると同じ位愚かな事だといった意味。
自動小銃AK47」の生みの親であるミハイル・カラシニコフが2013年12月23日、ロシア中部イジェフスクの病院で94歳にて亡くなりました。

 ワシントンポストサイトからその記事を拾ってみました。
 彼は農家の病弱な子として生まれ、現在得ている国際的名声とはおよそ縁遠いように見えました。19歳になるまでに旧ソ連赤軍に徴募され、そこで彼の技量が徐々に発揮されるようになりました。およそ3年後の1941年、ブリャンスク地域の部隊にいた彼は、侵攻して来たナチス・ドイツとの戦闘で、胸か肩に負傷し、入院しました。モスクワ南部の病院で回復しつつあった彼は、その時に優れたドイツ軍の武器にはとてもかなわないと考えていました。
 退院した後彼はサブマシンガンの設計士として仕事を得、そこで試行錯誤を重ねながら、遂に1947年自動小銃AK−47を開発したのでした。
 それは簡素で信頼の置ける優れた武器となりました。10ポンドほどの軽さの小型の銃で、8つの動く部品のみから成り、およそ30秒で分解し再度組み立てる事が可能になりました。それはどんなに汚れた所でも火を噴く事が出来ました。
 それが最初に登場したのは、東ベルリン騒動のあった1953年、次いでハンガリー革命のあった1956年でした。
 それから各地での戦争で用いられ、北ベトナム正規軍や南ベトナムのべトコンも使用しました。1981年のエジプト大統領サダト暗殺で使われ、イラン=イラク戦争では両軍が用い、アルカイダの指導者オサマ・ビン・ラディンもそれを携えていました。
 今日24か国以上の国がそれを生産し、中国、北朝鮮、エジプト、イラクフィンランドも含まれています。あのベネズエラチャベス大統領でさえ、生産工場を作ろうとしていました。
 ですから毎年100万ものAK−47が作られ、出回っているのはおよそ1億丁とも言われています。
 それ故今日イラクアルカイダ、アフガンのタリバン、シリアの反体制派も、それを使っています。それゆえ人間の歴史においては、「最も多くの人を殺した武器」として知られています。
 カラシニコフはこうした功績から、既に1949年にはスターリン賞などを受賞し、その後も数々の賞を得ています。
 しかし彼は今日の憂慮すべき事態に対して、「悲しい。私はナチス・ドイツから祖国を守るため、優れた銃をつくろうとしただけなのに」と言っていました。
 最晩年には「私はよく眠れる。私は母国を守るためにこの銃を作った。それが時に使用してはならないところで使われているのは、私の責任ではない。それは政治家の責任である」と答えていました。
 祖国防衛の目的だけで開発したこの銃、彼の意図とかけ離れたところで、今も人間殺傷の為に使われている状況を、彼は地下でどのように思っているでしょうか。悲劇の英雄と言えるのでしょうか。
*2014年1月14日の朝日新聞に新事実がありました。彼は自分が開発した銃で多くの人が殺されたことへの罪悪感を告白する手紙を、信じていたロシア正教会の総主教に宛てて書いていました。そして一つの解けない問題として、自分が「その罪に問われるのだろうか。それが敵の死だったとしても」と綴ってました。それほど敵の死にも心を痛めていた様子が伺える文章です。
 彼はドイツ軍との戦いで、旧約の「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」(レビ24:20)を実行しました。分を越えた復讐ではありません。しかし新約では彼はその信仰により「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)という事になります。彼は信仰により天に引き上げられ、救い主は「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)と宣言しておられます。天の御国とはそういう所なのです。人間の基準ではありえない事です。