ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

五輪問題

 「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13,14)。
 2014年1月21日のワシントンポストサイトでは、論説委員のチャールズ・レインが「オリンピックと言えば、試合はもう終わっているはずだ」という題で記事を寄せ、ソチ五輪の事を取り上げていましたが、23日にはやはり同コラム欄執筆者のサリー・ジェンキンスという人も、「国際オリンピック委員会は、選手とファンの安全性を危うくし、競技の功労賞をロシアのプーチンに与えようとした」といった厳しい題で、論考を載せていました。
 そうした今回のソチ五輪に対する危機感の背後には、昨年10月と12月の連続爆破テロ事件が生じ、多数の人々が死傷した事があります。その事件は今度の開催地ソチよりかなり北方にあるボルゴグラードで生じました。肝心のソチですが、さっぱり場所が分からなく、新聞記事より、ロシア南部にある北カフカス地方の都市で、黒海に面している事を初めて知りました。さらに驚いたのはその東部に隣接して、今紛争が激化しているチェチェン共和国がある事でした。いわば紛争の地域での五輪開催だったのです。
 ここでレインが引用している近代オリンピックの精神を、フランスの創始者クーベルタンから学び直そうと思います。
 「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである。人生で大切なことは、成功することではなく、努力することである」。
 参加する事、努力する事が当初の目的でした。
 しかし時の経過と共に、その精神は忘れられ、ただ大会が継続され、選手がメダルを目指して競争するのを楽しめば良いというだけのものに変貌してしまいました。そこに商業主義も入り込んで、最新鋭の競技衣類の良さを競い合っている始末です。薬物使用でメダルを獲得しようとする動きも続いています。
 そういう変化を東大闘争を担った造反教官折原浩氏は、マックス・ウエーバーの『社会学の基礎概念』を引用し、目的合理性・整合合理性という概念を用いて論じ、特に堕落した東大当局を鋭く批判していました。最初の高邁な目的が忘れ去られ、ただ続いていさえすれば良いといった思考です。東大にそんな目的があったかどうかは別ですが。
 今世界中で格差が広がる中、このオリンピックに参加出来る人の数も少なくなるでしょうし、貧困な子どもたちが五輪に夢を託そうとする意欲も失われつつあると推測します。
 ジェンキンス氏は、「ソチ競技の上演はプーチンと反政府勢力の間の意欲の競技になった」と言っています。
 ザ・ネイションサイトも、ロシア政府が環境を破壊し、そこに住む人々から諸々の権利を奪っていると主張しています。プーチンの威信のみの五輪、全く逆立ちした五輪、クーベルタンが生きていたら、何と言うでしょうか。
 ただテレビを見て楽しむだけの私たちにも、厳しい問いかけとなっています。五輪はテロなど全くない、世界の皆が安全・安定した生活の中で行うべきものと考えます。その意味で私は東京五輪にも反対します。