ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

山下祐介・市村高志・佐藤彰彦共著『人間なき復興』を読んで

 「今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります」(ルカ12:52−53)。
 上記の本を図書館で借りて読みました。300ページほどですが、中身が一杯詰まっており、福島県双葉郡富岡町住民で東京に避難し、2013年6月に「NPO法人 とみおか子ども未来ネットワーク」を立ち上げ活動している市村高志氏が中心となった、四章からなる三氏の対談です。相当な激論も戦わされたと思いますが、それぞれ鋭い問題提起があり、内容は極めて緊張感のあるもので、私のような東京近辺に住む福島への浅はかな知識しか持たない者への告発のようにも感じられました。軽く読み流せる本ではありません。付箋が一杯でどう纏めたらよいのかも分かりません。

写真はhttps://ja-jp.facebook.com/people/Takashi-Ichimura/100004500582211からお借りしました。
 付箋を挟んだ部分から適当に抜き書きします。
 第一章の終わりで市村氏は原発中心から10キロ以内の富岡町より、着の身着のまま、命からがら避難してゆく様子を詳述し、落ち着いた後の思索から得た事も書き添えて、まさにこの本を濃密なものにした経緯が分かります。原発の真実を抉る人としてふさわしいです。とはいえ「何十年と積み重ねてきた人生がそこにはあった。原発事故は、そのすべてを一度に失わせてしまった」と言う市村氏の言葉は、東京圏に住み、ただ原発から電力だけを享受していた私には、重いものがあり、言葉を失います。氏であれば「失ったのは故郷ではない。失ったのは生活の場であり、暮らしそのもの」と告発しています。生活の場は又「人生」とも言い換えられます。
 しかも朝日ウエブ論座(2月7日)でも触れていますが、今の立ち位置が分からない状況を「とてつもなく複雑で数えきれないほどのピースがあるパズル」に譬えています。「どことどこを組み合わせれば元に戻るのか、必死で考え」てみたものの、「放射能に一度汚染されたらなかなか元に戻らない事が分かってしまった。だから、持ったピースをどこに置いたらいいのか分からない状態」で、今尚模索を続けています。「徹底して原状回復を追求」してはいますが。それでも飯館村の例を引きながら、戻れるのか避難し続けられるのかという自問の果てに、「今や、もう仕方ないかなという、あきらめ感に変わってきているような気がします」とも言っています。
 国による現在の復興策の不毛さについても、「『人の為の復興』であるはずのもが、目的と手段の逆転が起き、『人のいない復興になってしまっている』。帰還政策も結局は、元いた人が戻るのが目的ではなく、あくまで除染やインフラ整備、雇用創出や都市計画が目的化しているという意味で、やはり『人のいない復興』のようだ」と述べていますが、これはこの本の主題です。
 西欧と違い、日本では既存のルールの上で無理に押し通し、力ずくで突破しようとするから、人間なき復興となり、無理して警戒区域を解き、年間線量20ミリシーベルトで我慢し、除染も徹底出来ないけれど、後は自己管理、それが飲めなければ復興の手伝いが出来ない(賠償・補償の終了)という隠微な脅しが来ます。
 その結果「家族の分断、地域社会の分断はもとより、福島県内にとどまる者と県外避難者の間に、仮設住宅と借上げ住宅の間に、あるいは自治体職員と住民たちの間に、そしてまた、強制避難者と自主避難者との間に、さらには又、避難者たちと受け入れ先の人々との間にも深い亀裂が見え隠れする。避難者たちは、脱原発を訴える都会の人々との間にある大きな裂け目にも遭遇し‥そしてこの裂け目は、避難者のみならず、国民全体のうちにも生じてしまっており、この裂け目の上に取り交わされる言説は、ますます人々を傷つけるものへと展開し始めている‥」。
 福島を遠く離れた地に住む私たちは、関心を持ち、少しでも知っているから、分かったつもりになりがちです。でも再度謙虚な気持ちになり、市村氏をはじめ被災者の重い口から出て来る重い言葉に傾聴する必要があると考えます。深い裂け目を狭めるには、そこから出発するしかありません。