ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ガーゼという言葉の起源

 「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった」(ルカ10:33−34)。

 東京新聞サイト2014年1月14日の筆洗では、「傷の手当てに使うあの白い布は、なぜガーゼと呼ばれるか」という問いかけで始まっています。左は我が家の備えのガーゼです(画像きたなくてすみません)。
 私は知りませんでしたが、何とパレスチナの南部の町ガザが語源らしいとの事です。ガザであるなら、旧・新約聖書を通し20回ほど登場するペリシテ人の町でした。ペリシテ人も今のパレスチナ人の語源となっています。
 語源辞典など調べてみますと、ガーゼは元々ドイツ語(Gase)で、由来は古フランス語ガゼ(gaze)から来ており、そのガゼはこの古代都市ガザから派生した言葉で、そこで盛んな織物だったと推測されているようです。
 聖書ではガザは占拠の問題で複雑な動きがありますが、ここがガーゼに使う生地生産の盛んな地域だったという記述はありません。ですからあくまで推測の域を出ない事柄だと思います。
 筆洗の記者は次に、「皮肉なことに、ガザは紛争の地、いくらガーゼがあっても足りない町になってしまった」と言っています。

 その紛争ですが、ウイキペデイアで見ますと、この地区に住む人々の3分の2は1948年の第一次中東戦争によって発生したパレスチナ難民およびその子孫で構成されており、第三次中東戦争(1967年=6日戦争)で、イスラエルが勝利すると、ガザ地区ヨルダン川西岸地区の支配権を獲得し、パレスチナを統一したそうです。
 それから約30年近く経過し、1993年ノルウエーのオスロで、当時のクリントン大統領が仲介し、イスラエルパレスチナ解放機構(PLO))の間で暫定自治政府原則の宣言が出され、ガザでも翌年パレスチナ自治区が発足しました。しかしそこは、次第にパレスチナ過激派の拠点となりました。ガザのイスラエルに対する散発的な戦いに対して、イスラエルが報復するという形での戦いが、今も続いている事になります。2007年のイスラエルによるガザ侵攻で、事実上オスロ協定は崩壊したと言われています。
 ですからガザでは戦闘による死傷者が絶えず発生し、その傷を包むガーゼが幾らあっても足りないという事態になります。
 イスラエルの機関紙ハ・アーレツ誌など最近のサイトを見ても、ガザ地区からのロケット攻撃への報復として、空軍のジェット戦闘機がガザの標的を撃ち、多数の負傷者が出た事を伝えています。ガーゼは足りたのでしょうか?
 この深い傷口がガーゼのように包まれ、癒されるのはいつの日になる事でしょうか。必ずやって来ますが、聖書の預言ではいつとは明言されていません。