政治学者藤原帰一氏の考える歴史問題と聖書の教え
「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか」(ルカ6:41)。
2014年1月21日の朝日新聞連載「時事小言」は、国際政治学者藤原帰一氏が担当していました。
藤原氏は安倍首相の靖国参拝から、歴史問題に矛先を向けて持論を展開しています。
特に第二次世界大戦における韓国や中国と日本を巡る歴史の解釈の相違が、双方に大きな軋轢を生じさせています。
不幸な事にそれは互いの非難合戦となってしまいました。
その果てしない議論について、藤原氏はこう言っています。
「これらの議論は、変わるべきなのは相手のほうだ、自分の側は毅然として立場を堅持すればよいだけだと考える点で共通している。逆に言えば、自分のほうが変わる必要があるとは思っていない。問題の責任が相手にあるとお互いに考え、どちらも自分の立場を変えようとしないのだから、紛争の長期化は避けられない」。
これは典型的な自己中心という考え方です。聖書によればそれは最初の人アダムとエバが起こした神中心への反逆という罪であり、その罪が彼らの子孫に伝播し、普遍的な性質となっているのです。また聖書では繰り返し、自己義認という事に対する警告も行なっています。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)。
ここで知恵のある者とは、神が与えられた知恵を受け入れた聖徒たちの事です。そのように人は神のことばによって変えられない限り、自分を正しいとし、あくまで「変わるべきなのは相手のほうだ」と言い張るわけです。
冒頭の聖句の箇所を詳しく引用しますと、「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです」(ルカ6:41−42)とあります。これを見ますと、キリストは「自分の側は毅然として立場を堅持すればよいだけ」とする態度に異議を申立て、変わるべきは相手ではなく、まず自分なんだという事を主張しておられます。譬えは大きくてびっくりすると思います。自分の側の目に「梁」(=太くて長い横木)があるのに、それを棚上げして他人の目にある小さな「ちり」を真っ先に見てしまう事です。この「梁」は大きな罪・咎であり、これをまず正さなければなりません。
戦争は人間を狂気にさせます。その過程で様々な許容しがたい事が過去に生じたのは間違いないです。1941年から始まった太平洋戦争で日本は数々の残虐行為を行いました。それはその当時の確たる証人がいて、事実として歴史に定着しています。南京事件もそうでしょう。戦後生まれの私たちには正確な規模などはわかりませんが、それを目撃もしていないのに、無かったと言い張るNHK委員の百田尚樹氏の目の中の梁=罪は残ります。その人を許容するNHKも同じです。国際社会で起きた事をなかった事にし、あくまで自己正当化を図るなら、どの国からも日本は信頼されなくなります。
自分の目の中の梁=罪を認めるところから出発したドイツは、その戦争責任を明確に認めて謝罪しました。次のステップは簡単でした。例えばフランスとの和解は容易に進展しました。
その意味で私は日中関係には悲観的です。しかしキリスト教人口の多い韓国との間では、少なくも日本が非を認めるところから、解決の糸口は見いだせるかもしれないと思っています。