ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

聖書的見地と程遠い曽野綾子の最近の産経コラム内容

 「あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、【主】である」(レビ19:34)。
画像は仏語サイトから借用。
 2015年2月11日の産経新聞曽野綾子の透明な歳月の光 労働力不足と移民』というコラムで、作家曽野綾子はあからさまな人種差別問題を持ち出し、各方面から強烈な批判を浴びています。2月16日の東京新聞でも、南アフリカ在日大使が「曽野綾子のコラム 人種隔離美化」という見出しで、産経新聞に抗議した事を伝えていました。
 ネットで調べると、既に産経新聞サイトでは全文読む事が出来ず、http://daibosatutouge.seesaa.net/article/414110326.htmlからお借りし、その要旨を述べたいと思います。
 出だしはこうです。「若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている」。
 そして次に不足している労働力として、高齢者のケアの為の看護師さんとかヘルパーさんを念頭に置いて、そうした職種での労働移民を押し進めるべく、語学を含め様々な規制の緩和を述べています。
 しかし逆に今度は、そうした人々が増えた場合の「移民としての法的身分は厳重に守るように制度」を作って守らせなければならないと述べています。
 最後に南アフリカ共和国での黒人と白人がうまく共存出来なかった例を挙げて、現在強烈なバッシングに遭っている問題発言が飛び出しました。
 「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」。
 このくだりが人種隔離美化として、非難が殺到しているわけです。
 しかし私はそうであるにしても、不毛な非難合戦に加わるつもりはありません。
 曽野氏が自称カトリックであるという事は良く知られています。しかし敬虔な信徒であるという評には、私は断固異議を唱えます。たとえ聖書の幾つかの箇所を知っていても、身も心もキリストの精神に背いています。
 創世10章において、その第1節に「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた」とあります。聖書によれば、私たちはノアの大洪水後残ったノア、セム、ハム、ヤペテとそれぞれの妻たち合計僅か8人のうち、ノアの3人の息子たちの直接の子孫に当たります。
 そして彼らの系図が記述された後、最後のセムの箇所と、次の箇所(創世10:31,32)にこうあります。
 「以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった」。
 そして地上に分かれ出たきっかけが、次の章におけるバベルの塔建設の挫折です。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである」。
 地の全面は、ノアの洪水による気候の大激変で、気候の寒暖に様々な変化が生じていました。従って暑いアフリカ、温暖な地域、寒冷な地域に移った人々の皮膚の違いが、メラニン色素の多い少ないの差である事は、創造論ばかりでなく、今では世の常識に近くなっています。それをいまだ「人種」という言葉を使って平然としているのは、ダーウインの進化論を信じる差別論者です。
 曽野綾子は今度の文中では、1度だけ人種差別という言葉を使っていますが、問題の発言が人種差別を踏まえているのは明白です。この彼女を敬虔なカトリック信徒と呼ぶのは、私のようなバプテストやプロテスタントにとって、全く恥ずべき呼称です。サッチャーのような新自由主義作家とすべきです。
 モハウ・ペコ駐日大使が「アパルトヘイトを許容し、美化した。行き過ぎた、恥ずべき提案」と述べたのは、当然の事でしょう。
 ただ各民族の文化の違いや、私たちも共通に持っている「心の罪」、つまり自己中心という罪の性質がある為、日本の中で平和的共存を求めるのが、本当に難しいのは事実です。私のマンションでも、多民族との軋轢が絶えません。しかしそれは民族差別の問題とは次元が異なり、あくまで罪の問題であって、それが解決しない限り真の平和的共存は不可能であるという聖書的観点を、改めて考えさせてくれました。
 ブログ仲間でも曽野ファンは多いですが、これまで読まれた本を再度読み返し、対峙してみて下さい。