ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ノーベル賞受賞の4人の生き様

 「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」(コリント第一10:24)。
 2015年10月はノーベル賞各賞の受賞者発表の月でした。まず医学生理学賞に大村智北里大学特別栄養教授が選ばれ、次いで物理学賞に梶田隆章東大宇宙研究所長、文学賞としてスベトラーナ・アレクシエービッチ氏、平和賞はチェニジア国民対話カルテット、経済学賞アンガス・ディートンプリンストン大学教授が選ばれました。
 東京新聞の記事を主体に見てゆきますと、トップの大村氏はインタビューに答えて、人の為に続けて来た研究が結果的に熱帯感染症の特効薬の開発に貢献して、途上国の多くの人命を救った事に触れえいました。
 アレクシエービッチ氏はチェルノブイリ原発事故で苦しむ人々の声を集めて、文学的に構成し『チェルノブイリの祈り』などの作品を発表して来ました(*図書館での予約数がすごく、まだ1冊も読んでません)。
 チェニジア国民対話カルテットは、チェニジアの政治的混乱の中、国民対話を促してその民主化に貢献しました。
 ディートン教授は、ますます広がる貧困や格差を分析し、その仕組みの一端を解明、「お金で幸せは買えない」と結論づけたそうです。
 ノーベルは「より良い人類の未来に貢献するため」、その一助としてノーベル賞を創設しました。東京新聞の記者は、今年「弱者に目を配り、社会問題の解決を示す研究や作品を選んだ」と評価しています。

 さて残ったのは梶田教授の受賞です。はじめに断っておきますが、私は梶田氏に何の恨み等を持っていません。
 なぞの素粒子ニュートリノに質量があるのを確認した事が大きな功績なんでしょう。しかし私はキリスト教信徒として宇宙が神によって創造された事を信じています。だから神などいないとして、こうした宇宙論の研究に取り組む事には疑念を持ちました。「人間にすぎない」者(イザヤ44:11)が、神の領域に挑戦しています。東大という大きな資金が活用出来る特権的立場に立って。
 このプロジェクト、岐阜県の神岡に作られた施設「スーパーカミオカンデ」が主体となっていますが、この建設費は約100億円、その後の「ハイパーカミオカンデ」の新設に800億円もかかります。梶田氏が「多額の費用がかかる研究は、国民にサポートしてもらわないとできない」と正直に言っているほどの額で、巨大な国家的事業になります。文科省の大型プロジェクトに対する基本構想の参考資料(http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/06/06/1321715_03.pdf)には、「大型プロジェクトが税金で賄われるかぎり、社会への発進・国民との交流の図れない新規事業は再検討すべき」とありました。実際にはこの施設で事故もあり、使われた税金総額は120億円に達するそうです。
 私に言わせると、これだけの国民の税金が投入された巨大事業によるニュートリノの発見は、梶田教授の個人的栄誉の他に国威の発揚にも繋がっている筈です。
 今安倍首相と文科省が進めている人文社会科学系学部などの廃止や見直しと、理工系人間育成重視の政策は、研究者がこの研究は一体何が目的なのか、人類発展の為に寄与しているのか、税金投入による多くの人々の苦難に対する倫理的責任はどうなのかといった「人文社会科学的思考」を捨象し、国家の為に自己の立場は何も考えない人物を育てようとしています。
 故高木仁三郎氏は、こうした問題に苦しみながら格闘していました。氏の指導教官である東大教授は「学問というものはこのような時にも、世事に流されず、中立性を保つことで独立性を保てる。科学というのは本来価値中立的なものだ」と言いましたが、それに対して高木氏は「学問の独立性は、民主主義と自由、そして個々人の人間としての尊厳といったもののうえに成り立つのではないか。それが侵されている今、学問の立場からこそ発言すべきではないか」と反論しています。その思考は、同じく東大全共闘議長だった山本義隆氏にも通じます。「原子力発電は建設から稼動のすべてにわたって、肥大化した官僚機構と複数の巨大企業からなる“怪物”的プロジェクトであり、その中で個々の技術者や科学者は主体性を喪失してゆかざるを得なくなる。プロジェクト自体が人間を飲みこんでゆく」という鋭い指摘をしています。
 聖書によれば、人間は生まれながらに自己中心で、「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世6:5)と言っています。高木氏や山本氏の言葉を借りると、人間は梶田教授も含め自己中心的で、巨大プロジェクトに対しては、その「主体性を喪失し」、その研究は世事に流され、価値中立は成り立ちません。自分を捨てて人類の益になるように働き、私たちの投じた血税がそれに見合う形で還元される事は、全く幻想でしかありません。10月15日の東京新聞のコラム「ノーベル賞弱者の視点」が、あえて物理学賞の梶田教授に触れていないのは、けだし当然だと思っています。
 たまたま読んでいた神野直彦氏の『人間国家への変革』にも、「学問の世界で、偉人とは、知識を所有して他人に与えない人間のことではない。偉人であるかどうかは、知識を惜しみなく他人に与え、いかに学問の発展に貢献したかによって決められる」とありました。資本主義の終焉が近づき、私たちは科学に対しても、全く新しい枠組みを構築する必要があるでしょう。私は梶田教授が巨大プロジェクトの中で翻弄され、そんな事は全く考えもしていないと推測します。繰り返しますが、これは梶田氏に対する個人的中傷ではありません。