ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

福島が日本を超える日は来るのか

 「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています」(ハバクク1:3−4)。
 図書館で今年3月発行の『福島が日本を超える日』(浜矩子・白井聡・藻谷浩介・大友良英内田樹著)を借りて読みました。

 この著者たちはいずれも「『生業を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟」に関与しています。しかし全てを読んだ限りでは、本当に福島が日本を超える日は来るのかというのが率直な感想でした。それはとにかく幾つか付箋を置いた箇所を見てゆきたいと思います。
 浜教授は「経済活動というものは、人間を幸せにしてこそ、はじめて経済活動の名に値することになる」という認識からスタートし、原発が稼動している経済は、じつは経済ではない」とずばり指摘しています。それは人間を幸せにはしないからです。ですから今福島に必要なのは、原発再稼動による経済成長ではありません。それゆえ浜教授はアベノミクスの事を「アホノミクス」と言い換えています。安倍首相らは弱者救済、中小零細企業救済、貧困の減少、格差解消など眼中にないからです。ではどうするか。チーム・アホノミクスの面々が持っていない「傾ける耳と涙する目と差し伸べる手」を道具に、希望の為の、平和の為の陰謀集団を自分の周りに形成してゆけば、知恵が湧きいで、元気も出て、無限の陰謀力となり、全国津々浦々に充満する、それで原発再稼動の連中をやっつけられるというビジョンだそうです。
 白井講師は『永続敗戦論』で知られた人ですが、この生業訴訟の趣旨は、賠償金獲得だけではなく、国と東京電力という責任主体に対して筋を通させるという事も含まれていると指摘しました。そして安倍政権が原発維持を決めた、即ち潜在的核武装能力を維持する決意をしたという事は、あの戦争の戦勝国の特権に与りたい、あの戦争を勝った事にしたいという気持ちの表れであり、敗戦の否認であると持論を展開しています。戦前を中途半端にしか清算出来なかった戦後レジーム(=永続敗戦レジーム)の象徴であり、中核をなすものが原発であるとすれば、原発をなくすということは、永続敗戦レジームを倒すことと同じだと主張しています。
 藻谷研究員は『里山資本主義』で有名な人です。「お金で買えないものをもっと見直して、お金だけの生活よりももっと楽しく暮らそうという主義です」。
 例えば岩手県の住田町という所は96%くらいが山林(杉)で、町役場を立て替える際、その杉を出来るだけ使って造ったのです。100パーセント木造だそうです。従来の鉄筋コンクリートは使用していません。利点は後者が50年しか持たないとすれば、前者は悪い所だけ取替え、100年でも持たせる事が出来ます。すると経費は安いし、維持費も安く、地震にも火災にも強いという事になります。欧米では木で造った高層の建築物も多くなっているそうです。
 では福島県ならどうでしょうか。会津は間違いなくよいのですが、藻谷氏は阿武隈山地を含めた全域で可能だと言っています。森林除染が一向に進みませんが、木の葉や皮でなく幹を使うので大丈夫だとの事です。建材として又木屑として利用出来ます。放射能汚染は広く薄く、もう10〜15年もすれば、普通に立ち入れる所が圧倒的に増えて来るのだそうです。もしそれが事実だとすれば、福島は日本を超える事になりますが、果たしてどうなるでしょうか?
 音楽家大友良英氏の事はよく知りません。「もし『あまちゃん』の舞台が福島だったら」という題ですが、テレビを持っていない私としては、あまちゃんの事も知りません。ドラマの主題曲を作った人のようです。震災で変わってしまった日常を、もう一回笑える日常を取り戻すにはどうしたらよいかというのがテーマだそうです。注目した記事は以下の通りです。
 「被災地に行ってアイドルとは何事か。不謹慎だ」という匿名のメールに対し、「被災者が笑っちゃいけないという法はないです。どんなにしんどくても笑わなければ生きていけません」と考えます。そして『天才バカボン』を書いた赤塚不二夫を引き合いに出し、「震災後、赤塚不二夫みたいな人が必要だなって、大真面目に思ったんです…きっと彼みたいな人は役に立ちませんよ…だけど役に立つってことだけが基本の社会って、恐ろしいと思うんです…原発だって『役に立つ』と言われてつくられた…『役に立つ』という基準でものを考えるのは危険だなと、震災の時に強く思いました」。なるほどその通りです。大友氏は身障者との関わりも持っていて、「いろんな個性の人がいて、弱い人もいて強い人もいるんです。強い人だけの社会なんか、ほんとイヤじゃないですか」と繋げ、互いに助け合う社会こそ豊かな社会、磐石な社会だと主張します。
 「『あまちゃん』で久慈が、岩手が誇りを取り戻せたのは事実です」。一方福島が持っていた資源というものは本当に恵まれたところもある。なのに原発事故が、それをひっくり返してしまいました。大切なのは、いまのこの状況を覆して未来につなげていく」事です。その為の一つの方法としての原発訴訟は「絶対に無駄じゃない…みなさんのいるここが、もっと強烈なドラマの舞台で…かけがえのない物語のなかを生きている主人公たちなんじゃないかって…思えて」来たと締め括ります。大友氏の主張がよく分かりました。価値ある文章でした。
 最後は舌鋒鋭い内田樹氏です。
 今福島では除染、避難指示解除、帰還という事が、あまりに性急に政府から出され、住民は困惑していますが、国会ではどの法案審議でも、「もう議論は尽くした、もう議論を打ち切ろう。この国のかたちをすみやかに変えなければならない。そう叫んでいた。一方、国会の外では、若者たち(*シールズが念頭)が、『ちょっと待って』と言っていた。そんなに急がないでほしい。もっと議論を尽くしましょう。どうしてそんなに急いで国のかたちを変えなければいけないのか、僕たちには分からない。だから、立ち止まってほしい。ちょっと待ってほしいと叫びかけていた」。内田氏はこの対比に「新しさ」を感じました。なぜか?「日本では老人たちがまさに『暴走老人』となって、思い切りアクセルを踏もうとしている。その一方で、若者たちが『いまある制度を守れ』という『保守』の立場から異議を申し立てている」からです。
 彼らの異議申し立てを踏まえて、福島での『生業を返せ』というのは、自分たちがかつて生きて来て、身体が記憶している「その労働の具体的な経験を返してほしいと言っている…そのことがとても大事です」と内田氏は結論付けます。賠償金とか代替地の問題はその後に来るのであって、「その順序は崩してはならない」。
 こうしてみると、共著者たちの主張に考えるべき事が多々あり、是非一読をと思った次第です。