悲劇の東京五輪マラソン選手円谷幸吉
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい}(コリント第一9:24)。
1964年東京でオリンピックが開催されました。今私はテレビを持っていませんが、父親が健在だった前年の1963年、米国大統領ケネディが暗殺された日に購入したので、その頃あらゆる番組に熱中していたのをよく覚えています。
オリンピックではマラソン競技を手に汗握る思いで観戦しました。エチオピアのアベベ選手が独走し、後を円谷幸吉と、英国のヒートリーが追う形となりました。そしてラストの競技場に入った時点で、2位を走っていた円谷は、ヒートリーに抜かれ、惜しくも3位となりましたが、銅メダルを獲得したのでした。
彼はよく健闘しました。それを知る人は栄光のメダリストとして、永くその名を記憶し、褒め称えたでしょう。
しかし彼は次のメキシコ五輪での金メダル獲得を宣言したものの、様々な試練に遭い、最後には身体的な情況からも、試合に出られる状態ではなくなってしまいました。真面目な円谷氏はいつも自分を責めていたそうです。
1968年そのメキシコ五輪の年の1月、彼は自衛隊の宿舎で首の頚動脈を切って自殺してしまったのです。まだ27歳の若さでした。
その時公開された遺書は、私の胸に響いた事をよく覚えています。
「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました…父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒 お許し下さい…幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」。
今福島では有名人で地元出身の人々を盛んに掘り起こしています。
円谷選手は須賀川市の出身でした。ネットを見ると、2006年実家の主から彼の主だった遺品が須賀川市に寄贈されたとありました。五輪の賞状・銅メダル・トロフィー・ユニホーム・シューズ…2千点以上だそうです。勿論上記遺書も含まれていました。東北本線須賀川駅南にあるアリーナという施設に円谷幸吉メモリアルホールというのがあって、そこで遺品が公開されています。
4月の福島民報を見ますと、東京の青梅市では最初のマラソン競技に円谷選手を招いて実行されました。以後誰でも参加出来る大衆マラソンとして定着し、今年50回目を迎えたので、実行委員会は須賀川市にいる円谷選手の兄に感謝状を届けました。それもメモリアルホールに展示される事になりました。画像はウイキより。
しかし福島県では2020年の東京オリンピックを控え、その実施に賛否両論が出ています。
それを契機にさらなる復興を加速させようという動きもありますが、その陰にはまだまだ復興どころでないという人々が多くいます。一旦その中継が始まると、熱狂と悲喜こもごものドラマの中で、福島の悲劇は脳裏から離れてしまうでしょう。
このところ避難指示解除準備区域と居住制限区域を、除染により一気に解除してしまおうという動きが盛んです。もしかしたら帰還困難区域でさえ政府のごり押しで解除し、原発事故を全く色あせたセピア色にし、華やかな五輪の鮮やかな色彩で覆ってしまうのではないでしょうか?