ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

勿来の風船爆弾製造と実施

 「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する」(イザヤ61:4)
 2016年5月20日、糖尿病の悪化でとにかく運動しなければと、近くの勿来の関を目指して歩き始めました。近所の人はよく散歩コースとして歩いています。

 その散歩道に入るところに何やら碑が見えたので、行ってみました。すると何とその右の看板に記されていたのは、太平洋戦争末期、日本軍が苦心して作り上げた風船爆弾製造地がここにあった事でした。
 風船爆弾といってもピンと来るのは、戦前の世代のごく僅かな方々と、私たち団塊の世代で親からその事を伝え聞いている方々位でしょう。それはいわき市遠野町で豊富だった楮から作られた和紙と、コンニャクを利用した糊とを張り合わせて、直径10メートルの気球を製造し、その中に水素ガスを詰め、図によれば2キロ焼夷弾と15キロ爆弾を吊るしたものです。
 今私の家からすぐそばにクレラップで有名な呉羽化学いわき錦工場があります。戦前呉羽紡績と呼ばれており、主として人絹を生産していましたが、政府の命令で1943年化学部門が独立し呉羽化学になりましたが、風船爆弾はそこで製造されたようです。

 左図は『戦争と勿来』第4集からスキャンさせて頂きましたが、そこで呉羽紡績に勤めていた人の証言では、風船爆弾の本体は「絹」とありました。どうも陸軍の和紙に対する海軍の絹の違いのようです。
 そして気球は12箇所作られた放球台から打ち上げられ、偏西風に乗って米国まで達しました。http://nakoso-mukashi.blog.jp/archives/1017042459.htmlによれば、この風船爆弾基地は、すぐ南の茨城県北茨城市大津町と、千葉県の一宮の3箇所に置かれ、1944年11月から翌年3月まで「合計9,300〜9,800個の風船爆弾が放球され、約8,000〜1万km離れたアメリカでは確認されただけでも285個が落下した」とあります。左図参照。

 それによって6名の死者が出ました。私はその事実を全く聞いていませんでした。徹底した秘密作戦であり、敗戦により機密書類などと共に消し去られたからです。
 私が撮った左の写真と看板で見ると、道の右側に兵舎があり、左右の崖に防空壕も造られ、その近辺に放球台もあったようですが、歩いても全く分かりませんでした。地形からしても、秘密基地として最適の場所だった事は分かります。空襲もありましたが、隣の植田町までで、この基地は攻撃されませんでした。1945年3月以降、水素ガスの供給が途絶え、部隊の半数が東京に転属になった事も挙げられるでしょう。
 この基地内部でも爆発事故で3名亡くなっています。
 翻って安倍内閣はこんな悲惨な戦争が再び出来るよう、憲法を改悪しようとしています。平和を創り出そうとしている者の一人として、反対の意思表示をし続けます。