原発事故で県外に避難した福島の子の特有ないじめ被害
「そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た』(創世21:9)。
2016年11月10日の福島民報に、「原発事故で県内から横浜へ 避難の中1にいじめ」という見出しの記事がありました。
いじめを受けたのは3・11後の8月に、福島から横浜へ自主避難した中学1年生です。報道によりますと、横浜市内へ転校した直後の小二の時から、名前に「菌」をつけて呼ばれ、蹴られたり殴られたり、ノートに落書きされたりしました。さらに小5の時には、「賠償金をもらっているだろう」などと脅され、同級生の遊興費(主としてゲームセンターでの)の為に、「一回当たり五万〜十万円を約十回、十人前後に支払った」そうです。単純計算しても、累計数百万にはなります。
それから6日後の民報に、いじめを受けた男子生徒による実態を記したノートの要旨が載りました。何度も読み直しました。
「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった。なにもていこうできなかった」。これがその生徒の「真骨頂」とでも言える文章ではないですか。
いじめは昔から普遍的に存在し、理由も概して共通していました。その為に孤立無援で死を選ぶという事例が多々あり、その都度記事になっていました。しかしこの生徒の場合、原発事故→避難・転校ということが起こらなかったら、発生しなかったかもしれません。その意味でこのいじめは福島から避難した子に対する特有のいじめなのです。
勿論この子も「なんかいも死のうとおもった」と告白しています。でも「生」を選びました。「しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。立派です。けれどもその生きる道は学校には無かったのです。ノートには、学校側はこの生徒の訴えを「信用せず」「無視」したということが綴られていました。であるなら逃れの場は家にしかありません。彼は「不登校」という手段で生きてゆく事に決めました。先生と言われる教師の原発事故に対する何たる無知・無関心でしょうか。またいじめた子らの親もそうです。「ばいきんあつかい」「賠償金」問題、これらは親が子に示唆しなければ、子が独自に考え付いた事とは思えません。
こうした親、学校、また市教委は何の有効な手立ても講じませんでした。何が共通しているのでしょうか?それは聖書でいう「罪」なのです。それは神の聖なる基準に達しないという意味です。教師=聖職者なんて嘘です。真面目に職務を果たしている教師もいるのは事実ですが。
そしてそれは誰でも普遍的に持っているものです。罪の解決がそうした人々に無ければ、いじめはこの世が続く限り、何度も繰り返されます。それはまた善悪の判断が出来るようになった子(だいたい小学校高学年になった頃)にも顕在化してゆきます。
だからこそ幼い時からの正しい教育が必要になってきます。しかし教える大人自身も罪を負っている以上、本当に正しい教育を施す事は出来ません。基準は聖書です。
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペソ6:1〜4)。
共通なのは「主=神であるイエス・キリスト」です。
この箇所は私が通っている教会での牧師のメッセージと同じでした。「幼児祝福式」の日曜日でした。
福島原発事故のため特有のいじめに遭っている子らにとっては、逃れの場は家庭や両親だけではなく、教会という選択肢もある事を覚えて欲しいと思います。