ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

安積疎水で誘客

 「ヒゼキヤのその他の業績、彼のすべての功績、彼が貯水池と水道を造り、町に水を引いたこと、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか」(列王第二20:20)。
 2016年11月13日の福島民報に、「安積開拓 疎水で誘客」という見出しの記事がありました。
 この安積疎水は5月24日の記事を見ると、日本遺産に指定された事が分かります。この日本遺産というのは、2015年に文化庁が認定を始めたもので、文化財を観光資源として活用する為だそうです。
 そして安積疎水ですが、猪苗代湖の水を安積原野(郡山市とその周辺)に引くという壮大な事業でした。
 この原野は荒涼としており、農業がほとんど行われていませんでした。
 そこで明治政府の内務卿大久保利通は郡山を訪れ、廃藩置県により困窮している士族たちの救済の為にも、この地の開拓が必須と考えました。
 政府首脳は1878年(明治11年)に、オランダ人技師ファン・ドールンを現地に派遣し、詳しく調査させました。

 彼は猪苗代湖の水位を変えずに、会津と安積への用水取水方法を考えました。それは会津を通り日本海へ流れる川の流量を調整し、水位を保持する十六橋水門と、安積地方へ取水する山潟水門を建設するというものでした。左図は現在の十六橋水門(=じゅうろっきょうすいもん)。画像は農水省ホームページより借用。
 それを受けて政府は早くも翌年にはその工事着工を命じ、127キロもの水路工事を僅か3年で完成させました。
 それによって現在の郡山市の盛況の基が出来た事になります。

 私は昨年3月17日、貸家を求めて郡山市内全域を歩きました。郡山駅から徒歩で国道49号まで行きました。その南に「安積町」という地名があります。その直ぐ近くを安積疎水が流れていますが、当時は全く無知で、見学もせず西のほうへ向かったのでした。
 いわきに引っ越してから、近頃国道6号バイパスを通り、左折し49号を利用して、いわき市中心のアリオスホールに行きましたが、その時この国道が郡山市の、まさに1年以上前私が徒歩で歩いた郡山市まで続いている事を知りました。感慨深いものがあります。
左写真は私が歩いた郡山市内。かつては荒地だったのでしょう。