ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

浪江町での『土の歌』全曲合唱コンサート

「また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ」(詩107:32)
 福島県浪江町は8月末現在居住人口825人、微増したものの全人口の5パーセントにも満たない。国道6号から西側の大半の地域がまだ帰還困難区域となっている。その土壌の放射線量も、所によっては非常に高い。
 そうした厳しい状況下で、戻った人々は不安を覚えながら生活している。その町民を元気付けようと、戦前浪江の大堀村に一時住んだ事のある、詩人大木惇夫作詞『土の歌』全7曲の合唱コンサートを、浪江町地域スポーツセンターで行なう企画が出た。それ以来、福島市いわき市南相馬市と東京で団員が練習に励んで来た。私もいわき市での練習に加わった。浪江の樋渡からいわきに避難し、私の所属する福島第一聖書バプテスト教会聖歌隊の指導をしているS氏が一緒だったので、大いに力づけられた。写真左下は15日の練習風景。

 9月15日はその団員がスポーツセンターに集まり、いわき交響楽団と共に練習をした。作曲家で自ら指揮を執る佐藤眞氏と初めて出会った。今年80歳、東京芸大で長年教え、作曲数も多く、知る人にとってはカリスマ的存在らしい。

 この日の練習を終え、さて自分はと思っていたら、S氏に誘われ、最近駅近くでオープンしたばかりの居酒屋に一緒に行った。浪江から福島市他に避難した人々が久々に集まって、交わりをし、思い思いにカラオケを歌った。その胸中はいかばかりだった事か。私は自然に涙が出た。写真右上。
 それから私たちはリニューアルオープンしたばかりの『いこいの村浪江』に宿泊の為、車で向った。駅に近い中心街は、まだほとんど人が戻っていないので、街灯だけが道を照らしていた。そこを通過すれば真っ暗である。

 素敵な宿だった。写真の中央が本館、右側に少し見える仮設住宅風の施設が、私とS氏の泊まったところである。事前に情報はあったが、炊事の為の食器道具など十分に揃っているものの、まだ食事付きになっていない。木をふんだんに使った良い造りだった。やがて食事が付くようになれば、もっと便利になるだろう。南相馬視察などの拠点になりえると思う。
 翌日は持ち込んだパンやアルファ化米などで食事を済ませ、再びスポーツセンターに向った。午前の練習、舞台での各パートの立つ位置決めなど行った。私はこの時点で貧血がひどいので、25分ほどだが、かなりエネルギーを使うので、他の2名の方と共に椅子に座る事になった。

 昼は弁当が出て、3時近くいよいよ私たちの出番である。私は初めての蝶ネクタイ、そして白のワイシャツ、黒ズボンという出で立ちになった。写真右はその緊張のひと時。
 練習を重ねた為、本番は大成功だった。町民は少ないが、皆が声をかけあって、多くの人に来てもらった。当初100人も来てくれればという予想を遥かに超えて、300人余が出席してくれた。1曲ごとに指揮者佐藤眞氏と私たちはお辞儀をし、割れんばかりの拍手があった。3曲目くらいで不覚にも涙がこぼれ、1箇所だけミスってしまったが、今回の混声四部合唱、ベースは25人と多く、慣れている人たちばかりだったので、気がつかなかったと思う。
 最後の第七曲が大地讃頌である。中学の音楽教科書にも載っている勇名な曲だ。「たたえよ大地を ああ」と壮大に轟かせて閉じる。アンコールも同じ曲。終わってもさらに催促の拍手があった。
 これが来客で現在浪江に住んでいる方々を、少しでも勇気づけられたとしたら嬉しい。作曲家・指揮者の故山本直純氏は息子に、「音楽は聴いてくれる人のためにある」と遺言を残したそうだが、与えられた25分でも、客がわくわくしてくれたら幸いである。
 この模様は福島民報朝日新聞電子版にも記事として載った。http://www.minpo.jp/news/detail/2018091755471で、座って歌っている私が見える。著作権があるので、許可を得て掲載するには至らなかった。
 福島県に来てからコーラスや吹奏楽が盛んな事を知った。元々自然豊かな県だが、原発事故で経済は苦境に陥っている。生活は苦しい。けれどもこうした文化に人気が集まっている。原発で人々は分断されたが、音楽がまた一つに結び合わせてくれる事を希求する。