ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

太陽光発電を阻む勢力

 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」(イザヤ43:19)
 私が住むいわき市勿来町も、あの大震災当時津波にやられた。
 旧防潮堤の内側はすぐ田んぼだったが、海水で冠水した為、5年ほど荒地のままだった。

 昨年新たに圃場が整備され、稲作が再開されたが、秋の収穫の時相当稲穂が倒れ、被害は大きかったようだ。
 今年は夏の暑さもあって、相当よく実っていた。私の家の隣の人の田んぼを手伝ったが、良い収穫となった。
 一方で田んぼか畑か分からないが、米作りを止めた土地の持ち主がいた。上記写真の田んぼ左手から直ぐ。

 今年の7月海岸への強歩の途中、その一角で工事が始まり、あっという間に太陽光発電の設備が完成した。
 なるほどこれくらいの規模なら直ぐ出来るし、家も少ないのでクレームが付かず、土地の有効利用になると思った。その後近くの電柱で工事があり、この設備と直結させていた。持ち主は売電が目的なかと考えた。
 或るニュース記事に、巨大ソーラー発電設備の設置は、自然豊かな福島の景観を損なうという反対意見があった。それはそうかなとは思った。
 しかしあの東電原子力発電所の事故は、福島全体を駄目にした。それとの比較では「なんぼのもんじゃい!」と反発した。福島の自然だけではない。ほとんどの福島県人の心も破壊し、今なお人々は苦しんでいる。しかも口に出しては言えないほど、心の奥底深く沈潜している。マスコミはそれが見えないので、見かけの復興ばかり吹聴している。
 故に原発はすぐ廃止というのが持論だが、段階を踏まなければと主張する東電元技術者で、福島原発に詳しい蓮池透氏(拉致被害者薫氏の兄)の意見にも傾聴した。でもやはり出来るだけ早く再生エネルギーへの移行をと願っている。
 それに「竿をさす」のが大電力の義務だと思っていたが、流れに逆行する姿勢を露わにしたのは九州電力だ。
 最近の東京新聞サイトを見たが(18年10月12日)、九電は川内原発玄海原発を再稼動させており、電力供給量が相当増えている。
 そこで九電はこれまた増加の一途を辿る太陽光発電を睨み、その事業者に対して「一時的な発電停止を求める『出力制御』」の実施を要請した。これは要請ではなく、「恫喝」だろう。実際そうなった。
 福島であれだけの事故を起こしたのに、尚も原発固執する醜さ、良心のひとかけらもないような措置だ。私の地域の東北電力も同じ考えである。
 福島原発廃炉作業も考えて欲しい。この先何十年も続く、危険と隣り合わせの仕事である。
 九電は川内も玄海も、全く事故を起さないと慢心しているのだろうか。
 神は完璧だが、人間のやる事に的外れは必ずある。欧米でキリスト教の神信仰は大分少なくなっている。それでも底流にはその考え方がある。だから主なる神を畏れてはいる。日本はクリスチャン人口が1パーセントにも満たない。故に悪の道を平気で歩む。神が彼らを𠮟りつけられる。「【主】を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む」(箴言8:13)
 主よ、新しい事を始めた事業者たちに逆らう、旧態依然の電力会社を懲らしめ給え。