ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

医療のミスは避けられない

 「神、その道は完全。【主】のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾」詩篇18:30)
 この聖句に「神、その道は完全」とある。では人間はどうか。ミスをする者である。英語のmissを日本語に訳すと「的を外す」という意味がある。士師記20:16には「この民全体のうちに、左ききの精鋭が七百人いた。彼らはみな、一本の毛をねらって石を投げて、失敗することがなかった」とある。つまり石を投げて、一本の毛という「的」を外す事=失敗する事=ミスする事、が無かったというのである。
 このミスをするという言葉が旧約聖書では、別の意味で創世記の4章7節に出て来る。既に3章で最初の人アダムとエバが神の道を外れている。ではその意味とは何か?「罪」又は「罪を犯す」という事である。「罪は戸口で待ち伏せし」とある。エゼキエル18:4には「罪を犯したたましいが死ぬ」とあって、原文へブル語は全て同じ「ハーター」である。それを英語に訳すとsin。神の道を外すのが罪である。「The soul who sins will die.」
 ゆえに「人、その道は不完全」となる。又は「人、その道は必ずミスをする、必ず罪を犯す」である。そしてその結果が聖書では「死ぬ」である。死は神の道に逆らって罪を犯した結果、報いとして与えられる。
 聖書の罪を犯す=犯罪は、国語辞典の「法律に違反する行為」と違う。法律違反をしていないから、自分は罪を犯しておらず、罪人ではないという言い訳は、神の前では通用しない。皆が罪人である。だから罪を犯す=ミスをするのである。
 これを踏まえていないと、人は他人に対して神のような完全な役割を期待する。でもそれは成就しないから、怒ってその他人を訴えたりするのだ。訴訟が悪いという事ではない。
 2018年10月11日の福島民友新聞サイトは、愛知県がんセンター愛知病院での医師による医療ミスを取り上げていた。CT検査の診断結果を、医師が2度にわたり見落としていたというのである。
 あまり詳しい報道ではないので私の推測だ。最初大腸がんの手術を受けた男性は、その時点で肺がんの疑いありとされたが、医師はカルテに記載しなかったそうだ。次は2回目のCT検査で、その時も肺がんの疑いを医師が記載しなったとの事。その結果として肺がんがステージ1から3まで進行し、リンパ節に転移していた。この治療の遅れを病院は謝罪したそうだ。
 そうかも知れない。しかし近藤誠理論というのがある。もし大腸がんが真正だったとしたら、その時すでにあちこちに転移があり、当然肺にも転移していたと言える。皆が寄ってたかって医師のミスだと言うが、近藤氏ならそうではないと言うだろう。そもそも大腸がん判明の時点で、受けても受けなくても死亡率に変わりがないなら、この男性が手術を止めていれば、ややこしい話に進展せず、良質ないのちの質を保つ事が出来たのにと思う。
 一方で本当に医師のミスはある。『白い巨塔』がそれを教えてくれる。50年以上前のテレビドラマだったが、完璧を目指す医師の慢心が見事に描かれている。こういう人ほどミスを犯しやすいのではないか?
 今でもそうした医療ミスは無数にあるし、1999年に起きた都立広尾病院の医療ミスで死んだ方は、私の大阪時代の友人だった。
 医療ミスは医者が神の手でないから、今後も必ず起こる。しかし一度起きてしまった事で怒りを燃やし続け、マイナス志向でエネルギーを費やすと、却っていのちを縮める。絶望の中に一縷の光を求めて行く、前向きの姿勢も必要ではないか。
 これがキリスト教信徒の場合、どんな苦難も死も、神の摂理のうちにあると納得し、平安に日々を過ごす事が出来る。