ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

大勢順応

 「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」(ヨハネ19:6)
 10月21日の朝日新聞「日曜に想う」というコラムの題は、「大勢順応という時代のわな」であった。
 大勢順応とは「主体性がなく、他の意見に安易に同調すること」とネットの辞書にある。
 このコラムにフレデリック・グロという、聞いた事のないパリ政治学院の教授が登場していた。2017年に『不服従』というペーパーバックを出して、「昨年フランスで話題になった」そうだ。まだ邦訳は無い。だから情報は少ない。
 「『地味で自発的な大勢順応』がもたらす危うさ」「人々が反抗することではなく、従ってしまうこと」の危うさを、「時代のわな」という表現の中に込めたのだろう。
 フランス語はもうとっくに忘れてしまったが、ネットで教授の発言を拾ってみると、「なぜ不服従が民主主義に必要なのか」とか、「不服従無しの民主主義など存在しない」といった大切な基本的表現があった。
 そのようにグロ教授は「『従わない』姿勢の意義を強調する」と、このコラムにあった。
 民主主義政治の下で不服従を貫く事の大切さは、分かっているようでそうではない。当たり前のようでいて、マスコミは取り上げない。なぜか?マスコミは大勢順応主義だから。
 フランス屈指のエリート校教授だそうだ。日本なら東大か。でも身体を張って「民主主義体制で従わない事は必要不可欠だ」などと言っている東大教授は、寡聞にして知らない。これはTV等を家に置いていない私の不徳の致すところか。
 ネットでは竹下節子というフランスに通じている人が、この本を紹介している(https://spinou.exblog.jp/29383099/)。
 注目すべき表現があった。「要約すると、 不服従というのは今や『人間的な行為の一つ』だ。なぜなら、私たちはあまりにも、『服従する』という型にはめられすぎている、服従しないことは、孤立することで怖い、という感情につながる。服従することが『みんなと同じ』という安心感を与えてくれる」「同調圧力の強い社会だとは分かっているけれど、だからこそ、『不服従』の学びについてみなが考えてほしいとつくづく思う」。
 なるほどと思う。ここに同調圧力という言葉が出ている。辞書には「地域共同体や職場などある特定の仲間集団において意思決定を行う際、少数意見を有する者に対して暗黙のうちに多数意見に合わせることを強制することを指す」といった定義がある。ならば「大勢順応」と補完し合う言葉だ。
 冒頭の聖書個所は救い主イエス・キリストが、私たちの罪を負って十字架につけられる場面だ。ピラトは当時のユダヤ総督で、犯罪者を死刑にする権限があった。しかしイエスについては「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません…」と言った。
 しかし当時のユダヤの支配層である祭司長・長老たちは、イエスの死刑を要求した。そして周囲にいた群衆もそうするよう教唆したのである。支配層による同調圧力だ。群衆は勿論大勢順応主義だから、それに従う。彼らは大声で「十字架につけろ」と叫び続け、ピラトは遂にその声に屈した。釈放する権限もあったが、支配者層や群衆の声に従ってしまったのである。彼は群衆を恐れ、不服従の態度を貫けなかった。彼もまた「大勢順応という時代のわな」に陥ってしまった。伝説では最期に自殺したという。
 大勢に従わない事の大切さをここから学ぶが、今は民の声に耳を傾けない独裁者安倍首相の時代だ。グロ教授の言う民主主義体制下ではない。不服従を貫き通す事がいかに難しいか考えさせられる。殉教ではなく、順応してしまう裏切り者ユダを自分のうちに見る。