ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

文系の知は長く役立つというが

 「【主】のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7−8)
 吉見俊哉著「『文系学部廃止の衝撃』」を読んだ。短期間での技術革新(イノベーション)を国は重視し、「役に立たない文系」を大幅に縮小しようとしている。
 吉見氏はそうした主張を丹念に分析し、文科省が出したのは「文系学部廃止」ではなく、間違って受け取ってそれを煽ったのはマスコミである事を立証した。この事は私たちもよほど注意しないと危ない。
 その後だが、国もマスコミも「未来の『文系』振興に有効な具体的方向性を示せていない」との要約があった。これは正解だろう。「『儲かるかどうか』ですべてが決まっていく新自由主義の大きな流れに文系学部が抗することはできない」ともあった。
 そこで吉見氏は章を替えて、「文系は、役に立つ」と打って出た。得た結論の一つがこの本の白眉なんだろう。「『役に立つ』ことは、その目的となる価値の軸の変換を含んだ長期的変化のなかで考える必要がある…『文系の知』は、価値の軸の変化を予見したり、先導したりする価値創造的な次元を含み、『長く役立つ』知で、主に理系が得意な『短く役立つ』知とは次元が異なる」。
 なるほどなあとは思う。では私が手にしている聖書はどうなんだろう。冒頭の聖句に「私たちの神のことばは永遠に立つ」とある。永遠に存在する神は聖書において、既に具体的な啓示を与えている。冒頭の創世記における宇宙の創造から、黙示録における永遠の未来までを完全に描いている。歴史における長期的変化も、預言の形で予示し、常に神が先導した。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテ第二3:16)。聖書は世の基準では広く「宗教学」に入るのだろうか。それなら「文系」だ。しかし創造から新天新地に至るまでの長い時間軸の中で、その時々において、人々のために「有益」なことばとして作用して来た。
 では聖書は理系のことばを含んでいないのか?そうではない。例えば天文学では「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います」(コリント第一15:41)、「【主】はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし」(エレミヤ31:35)など、地質学では「川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」、生物学では「肉のいのちは血の中にある」(レビ17:11)、人類学では「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました」(使徒17:26)、物理学では「すべてのものは衣のようにすり切れます」(詩篇102:26)など、枚挙に暇が無い。
 人間が長い時間をかけて見出した「真理」は、既に神が聖書で示していたのである。創造論では、聖書に基づき、その科学的な知の真実を、今でも解明している。
 吉見氏は東大の副学長である。卓越した知識を持っているのだろう。しかし聖書が文系・理系を超えた壮大な知的体系である事は、あまりご存知ないと思う。聖書の神はそれだけ全知全能なのだ。文科省がどう考えようが、世界中で多くの人が手にとり、その真理の知識を得ようと躍起になっている、大ベストセラーである。その流れに抗する事は出来ない。