ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

吉田松陰脱藩で立ち寄った松戸の本福寺

 「それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した」(使徒9:28−30)
 厳格なユダヤ教徒だったサウロ(別名パウロ)は、回心してからキリスト教徒となった為、ユダヤ人から狙われ、一時彼の出身地タルソまで逃れました。
 2013年3月23日、幕末の長州藩士で東北遊学の為脱藩した吉田松陰の立ち寄った松戸市上本郷の本福寺を訪問しました。その情報は既にミニコミ誌から得ており、たまたまブログ友だちのiireiさんが彼の事とその遺書である『留魂録』の事を紹介しておられ(http://d.hatena.ne.jp/iirei/20130320)、その冒頭にあった辞世の句がこの本福寺の碑にも記されています。ですから是非と思って自宅マンションから徒歩約20分、その寺まで行ってみた次第です。
「故哉越千住橋至千住驛日本橋至此二里皆連甍鱗々中也右折取道是為水戸道々狹家稀四顧不見山唯有平田漫々耳過綾瀬川橋經新宿至松戸驛新宿驛前有中川松戸驛前有松戸川皆舟済之其不架橋便舟之上下者張帆而過也松戸川兩岸有番所驛前立柱書曰御代官竹垣三右衛門支配所自此下總葛飾郡也時日已落欲宿此驛而恐追捕或及至本郷村入山二町許投本福寺時宗僧了音者在焉」(東北遊日記)

 彼の記した「東北遊日記」によれば、彼は江戸の長州藩上屋敷を出て水戸街道を歩き、葛飾区の綾瀬駅に近い綾瀬川を渡り、さらに中川を渡って金町駅に近い新宿(にいじゅく)を通過しました。そして最大の難所である関所のある松戸川(=江戸川)を舟で渡り、松戸宿に達しました。松陰はここで泊まりたかったのでしょうが、追捕の手を恐れ、さらに水戸街道を北上し、私の住む北松戸から右折し、明治神社からさらに右折して本福寺に到着し、そこで一晩を過ごしたものと思われます。写真左が明治神社です。ここは昔貝塚があった所で、境内は貝が散らばっています。有名な遺跡です。縄文時代ここまで海が迫って来たという事です。
 そしてその前から前方を見ると、目と鼻の先に本福寺が見えます。


 珍しい一遍の時宗の寺です。境内に一遍の立像がありました。この階段の下に吉田松陰脱藩の道と書かれた碑があります。その横に辞世の句がありました。1851年22歳の文字も見えます。

 さらに境内にこの東北遊日記の部分の書き下し文が載っている碑もありました。

 あっという間の見学でしたが、iireiさんが奇遇と言われた事は、ここでも生じた事になります。
 昔は鬱蒼とした森の中にあった寺ですが、松陰がここに留まって、江戸から水戸まで来る藩の人々にゲリラ攻撃をしかけていたら?なんていう事を考えながら帰って来ました。また自分は反原発を死も覚悟で押し通せるのかという事も自問しつつ…。