ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

再び宮沢賢治の作品を読むー『気のいい火山弾』

 BARinさんからもう一冊宮沢賢治の本を読んでみるよう勧められました。それが『気のいい火山弾』という短編です。
 凄く短いのですが、いろいろ考えさせられるところのある名作です。
 この最初に「ベゴ」の石という、典型的な火山弾の黒い石が登場します。そのベゴというのはあだ名で、稜(かどと読みます)のない、卵を押し潰したような形の石で、二本の石の帯が走っています。擬人化されており、「非常に、たちがよくて、一ぺんも怒ったことがない」と形容されています。
 それに他の全ての黒石が「ベゴ」とあだ名をつけて揶揄・嘲笑したのは、彼らがすべて稜のある石だったからです。
 そのように一人だけ異質な性格を持っていると、その他大勢の人々がいじめるのは、今の世の中の常です。
 さてベゴは様々ないじめの言葉を次から次へと受けますが、その偉いところは「黙して語らず」か「感謝して良いように受け取って」いる事です。以下に幾つか選んで列挙します。
 「ベゴさん。今日は。おなかの痛いのは、なほったかい」。「ありがたう。僕は、おなかが痛くなかったよ」。
 「ベゴさん。今日は。昨日の夕方、霧の中で、野馬がお前さんに小便をかけたらう。気の毒だったね」。「ありがたう。おかげで、そんな目には、あはなかったよ」。
 「ベゴさん。今日は。今度新しい法律がでてね。まるいものや、まるいやうなものは、みんな卵のやうに、パチンと割ってしまふさうだよ。お前さんも早く逃げたらどうだい」。「ありがたう。僕は、まんまる大将のお日さんと一しょに、パチンと割られるよ」。
 「ベゴさん。おれたちは、みんな、稜がしっかりしてゐるのに、お前さんばかり、なぜそんなにくるくるしてるだらうね。一緒に噴火のとき、落ちて来たのにね」。「僕は、生まれてまだまっかに燃えて空をのぼるとき、くるくるくるくる、からだがまはったからね…ひとりでからだがまはって仕方なかったよ」。「ははあ、何かこはいことがあると、ひとりでからだがふるへるからね。お前さんも、ことによったら、臆病のためかも知れないよ」。「さうだ。臆病のためだったかも知れないね…」。「さうだらう。やっぱり、臆病のためだらう。ハッハハハハッハ、ハハハハハ」。
 「ベゴさん。僕は、たうとう、黄金のかんむりをかぶりましたよ」。「おめでたう。をみなへしさん」。「あなたは、いつ、かぶるのですか」。「さあ、まだ私はかぶりませんね」。「さうですか。お気の毒ですね。しかし…あなたも、もうかんむりをかぶっているではありませんか」。「いやこれは苔ですよ」。「さうですか。あんまり見ばえがしませんね」。
 「どうも、この野原には、むだなものが沢山あっていかんな。たとへば、このベゴ石のやうなものだ…何のやくににもたゝない…」。
 そこでベゴ石の上の苔はいよいろ馬鹿にして、歌を歌いながら踊り出すのですが、ベゴ石はなかなかうまい、と言って受け流します。ベゴ石も即席に歌を作って歌いますが、野原中のものは「笛吹けども踊らず」で、嘲笑した挙句「絶交」だと言い始めました。
 そこに現れたのが帝大地質学教室の四人の学者たちです。この貴重な火山弾を見つけ教室へ持ち込もうとします。そこでベゴ石はお別れの言葉を述べます。
 「私の行くところは、こゝのやうに明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん」。
 このベゴ石を聖書に適用すると、まさに「救い主イエス・キリスト」です。
 「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」(イザヤ53:2)。
エスはその地上でのご生涯では、福音を宣べ伝え続けましたが、郷里の者・学者・パリサイ人・祭司長・群衆らの嘲笑を浴びて来られました。でも臆せず続け、遂に明るく楽しい所ではない十字架へと向かわれます。そしてそこで茨の冠を被せられ、さらに嘲笑された挙句、全世界の罪を負い、自分でできること即ち自らそのいのちを捨てる事をされました。皆の注目する中「油そそがれた者は断たれ」(ダニエル9:26)ました。
 でもその先は福音にあるように復活であり、役目を終えての昇天でした。天の父なる神は、キリストに再び「黄金の冠」を被せ、「御苦労だった」と言われたと思います。「死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神…」(ペテロ第一1:21)
 この貴重な物語を教えて下さったBARinさんに心から感謝します。宮沢賢治は確かに聖書も読んでいて、この作品のヒントになったのではないかと思います。