ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

東海村村長村上達也氏が引退表明

 「ついでモーセヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。『強くあれ。雄々しくあれ。【主】がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである』」(申命31:7)。 
 村上氏と言えば、原子力については素人として、日本で初めて「臨界」という言葉に出会った人ではないかと思います。1997年以来茨城県東海村村長を4期勤めて来ました。

 この東海村は、ウイキペディアによりますと、「日本で初めて原子力の火が灯った村として有名である。1957年(昭和32年)に日本原子力研究所(当時)東海研究所が設置され、日本最初の原子炉であるJRR−1が臨界に達して以来、多くの原子力関連施設が集積することとなった。現在も日本原子力研究開発機構日本原子力発電東海発電所東海第二発電所など多くの原子力施設が村内に所在」しています。
 そこに高速増殖炉の研究炉「常陽」の為の核燃料の製造を行っている住友金属鉱山の子会社JCO(株)があります。

 1999年9月30日、この会社が極めて悪質な作業工程により、粉末ウラン化合物を溶解するのにステンレスのバケツを使用していたので、この溶液が臨界(=核分裂の連鎖反応が安定した状態で続くこと)を起こしました。それにより中性子線を主体とする核種が大量に放射された為、作業員3人が被ばくし、さらにJCO周辺の地域に住む住民200余名も被ばくする大事故となりました。作業員の大内さんは16〜20シーベルト、篠原さんは6〜10シーベルト被ばくし、程なく悲惨な死を遂げました。また上記住民も年間許容量の1ミリシーベルトを越えました。さらに周辺農家の作っていた農作物が売れなくなり、大きな風評被害を起こしました。当時その南東に位置する鉾田町(現鉾田市)に住んでいた私は、ラジオが報じる異様に興奮したアナウンサーの声で、大いに不安な気持ちになった事を鮮明に覚えています。
 その時陣頭指揮に当ったのが、村上達也村長でした。水戸一高から一橋大学を出た人で、かなり広い人脈を持っていた人と想像します。その村上氏が、福島原発でも起こした政府のもたつく対応の「原型」となる、全く埒の明かない動きに業を煮やし、人命が第一として独断で村民の避難を行ないました。農業県として非常に狭い付き合いしかしていない周辺市町村の長たちとはかなり対照的な、決断と実行の人だったと思います。福島でもこういう硬骨漢が多くいれば、かなりの被ばくを防げたのではないかと思います。
 そして村上氏はその時から反原発の姿勢に転じました。福島原発事故が起きてからは、その急先鋒になったようです。東海第二発電所廃炉を提案しました。
 その村上村長が7月24日突如引退声明を行いました。村長は現在70歳です。東京新聞などによると、「4期が限界。70歳になったら辞めようと思っていた。後継も見つかった」というのが理由のようです。しかし安倍政権原発推進の動きで、全国の反原発首長が次から次へといなくなる中、このタイミングでの引退はどうも眉唾ものです。前民主党細野豪志原発事故担当相とは、どんなやり取りがあったか分かりませんが、その後の安倍政権や橋本昌茨城県知事から相当な圧力があったと考えるのも理に適っていませんか?任期満了が近づいた6月(9月改選)、原発推進派村議が複数集まって、山田副村長に出馬を要請したと、東京新聞は伝えています。村上氏の引退は本当に残念です。