ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

茨城県東海村JCO事故から15年

 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(コリント第二4:18)。
 2014年10月2日の東京新聞に、「被ばくで心が血を流した JCO事故15年 語り継ぐ」という見出しで記事がありました。
 1999年9月30日の時点で、私と母は茨城県鉾田市に住んでいました。その日東海村の核燃料加工会社JCOで、日本初の臨界事故が発生しました。そこまで直線距離にして36キロほど、それほど遠くありません。
左画像はhttp://www.bea.hi-ho.ne.jp/kuroha/jco_kengaku.htmよりお借りしました。
 私たちはその事故をニュースで聴いたわけですが、何しろ「臨界事故」というのは初めてで、その意味が分かりませんでした。臨界とは「ウランやプルトニウムなどの核燃料がある量以上集まって起きる、核分裂の連鎖反応が始まる起点」(『あの日、東海村でなにが起こったか』より)とありました。核分裂は、中性子がウランー235の原子核に衝突し、ここから、二、あるいは三個の中性子が飛び出し、さらにこれが別のウラン―235にぶつかるといった、ねずみ算式の連鎖反応を起こす事です。
右画像はhttp://d.hatena.ne.jp/kensho01/からお借りしました。染色体がバラバラになっています。このように放射能は染色体を損傷します。
 この臨界事故で多量の中性子線を主体とする放射線を直接浴びた大内久さん(推定18シーベルト被ばく)、篠原理人さん(推定6〜10シーベルト被ばく)、消防隊の飯塚進さん(12ミリシーベルト被ばく)のうち、大内さんと篠原さんが、悲惨な死亡に至った事は、よく知られています。さらに被ばく者総数は、公に認められただけで翌年4月までに667名になりました。
 その中で東京新聞では、JCOから約130メートル離れた工場で働いていた大泉昭一さん(既に故人)、恵子さん夫婦の事を取り上げていました。夫婦の推定被ばく線量は6・5ミリシーベルトでした。当時は健康影響はないとされた線量でした。
 恵子さん(75歳)は、直後に激しい下痢を起こし、胃潰瘍も生じさせました。そして「被ばくによる健康被害の恐怖を心因とした心的外傷後ストレス障害PTSD)」に陥りました。一方昭一さんは皮膚病の悪化、肺炎などから福島原発事故の1か月前82歳で亡くなりました。その時昭一さんは「臨界事故のことは語ってゆけ」と言い残していました。実際原発事故が起きた時、恵子さんは臨界事故の教訓が生かされていないと感じて、脱原発運動に突き進みます。

 そして2014年9月28日、茨城県東海村で開かれた臨界事故15周年の集会で演壇に立ち、「事故で生活ががらっと変わってしまった。被ばくで、心が血を流しているんです」と訴えました。そしてその後、集会に出席した350名ほどの人々と共に、東海駅までデモ行進をしたそうです。右画像左から3人目が大泉恵子さん。
 私はあの事故から15年経ても、なお最低でも667名の被ばく者が何らかの形で苦しんでいる事を知って、その無知を恥じました。まして原発事故の被災者たちの心は、血の涙で一杯だと思います。
 JCO施設は解体されましたが、東電自体は解体どころか、ますます居直っています。この不条理に改めて怒りを感じました。