ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

エティエンヌ・ラ・ボエシ著『自発的隷従論』を読んで思った事

 「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」(コロサイ4:1)。
 私がこの本を知ったのは、4月4日のnankaiさんのブログからです(http://d.hatena.ne.jp/nankai/20140404)。
 勿論初めてきいた聞いた名前で題が面白そうだったので、早速図書館で借りて読みました。

 フランス人である事は分かりますが、現代人だと思っていたのが、さに非ず、16世紀半ばに生きていた人である事を知ってびっくり、さらにこの本を書いたのが、16歳か18歳の時とあって、余計びっくりしました。彼はモンテーニュの友人でした。
 何しろ内容が現代の日本でも十分に適用出来るので、読みながらいろいろ考えさせられました。
 冒頭からすぐのところでボエシは「多数者が一者に隷従する不思議」という題で、「これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したい…」と言っています。そして「百人が、千人が、ひとりの者のなすがままじっと我慢しているとき、それは、彼らがその者をやっつける勇気がないのではなく、やっつけることを望んでいないからではないかと言えないか」と、疑問を呈しています。彼の疑問の背景には、人間が自然状態において自由であるという独自の解釈があります。「当然われわれは両親に服従し、理性のしもべとなり、だれにも隷従などしないであろうことは、疑う余地もない」。だから民衆が「あえて自らを抑圧させている」「あえて軛につながれている」状態を不思議に思い、「そうした隷従をやめるだけで解放される」というのです。自由を欲求しさえすれば、勇気が与えられ自由になり得る。
 歴史的に見れば、「人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる」。そこから彼は、「自発的隷従の第一の原因は、(教育と)習慣である」という結論を得ます。「生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているから」です。彼らは「戦う勇気のみならず、ほかのあらゆることがらにおいても、活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまって」います。そして抗いそうな思慮と知性のある者には、「小麦一袋、ぶどう酒一杯、小銭を少し、気前よく与えるだけで、『王様万歳!』という歓呼の声」を上げさせられるのです。
 しかし最後にボエシは、「圧政者とその共謀者に対する格別の罰を、神が来世で用意してくださっていると確信してい」ます。
 これがボエシのこの小冊子の骨子です。本全体の3分の1で、後は専ら訳注と、監修者の西谷修氏の解説となっています。左

画像は京都精華大学ホームページからの借用。
 西谷氏は補足し、「人間において習慣は本性よりも大きな力をふるう。いやむしろ、習慣づけられるという性質こそが人間の本性の一部なのである」と言っています。
 解説の最後の所で西谷氏は「人間は神に隷従し、神の奴隷となることではじめて自由を獲得する。つまり罪から解放される…」「だからキリスト教徒にとっては、神への隷従が他ならぬ自由の条件なのである」と言っています。
 それ故「彼(ボエシ)がそれを念頭においていたとすれば、これはキリスト教に対する冒涜的な読み換えだという事になるだろう。というのは、『自発的隷従』は全能の神に身を委ねて罪から解放される信仰の道であるどころか、卑屈に一者にとりいり圧政を支えて身を肥やす連中の、もっとも唾棄すべき悪弊だというのだから」と推測しています。これは鋭い観察です。
 そして西谷氏は、ボエシの自発的隷従を戦後の日米関係に譬えて、それを若干展開しています。現在の安倍首相を支えている大半の共謀者たちも、その延長線上にあるでしょう。原発を支える官僚たち、NHKの会長ら、ネット右翼、選挙に無関心で、自分さえ幸せなら良いと思っている利己的な若者たち…。
 私からのボエシへの批判としては、「人間が自然状態において自由である」という点がまずあります。人間は自由意志、自由な選択意志をもって神により創造されました。しかし程なく人間は罪を犯し、「罪の奴隷」(ローマ6:20)となってしまいました。従ってボエシの言う圧政者から自由を取り戻したところで、神への信仰とその律法への服従がない限りは、又自己中心的な愛への復帰にしかなりません。その中から支配欲を持った人が出て来たら、同じ事の繰り返しになります。西谷氏が「人間は神に隷従し、神の奴隷となることではじめて自由を獲得する」と言ったのは正しい事なので、「ですから、もし子(=キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)。
 しかしボエシが自発的隷従の第一の原因を習慣としたのは卓見だと思います。幼い時からの教育によって育まれて来る習慣です。だから教育は大切で、例えば竹富島の教科書採択論争を見ても分かるように、どのような教科書を用いて教えるかで、子どもたちは内容が心に刷り込まれ、やがて習慣と化して行きます。安倍首相が育鵬社の公民教科書を採択するよう圧力をかけ、新自由主義的思想、自虐史観無しの思想を子どもたちに植えこもうとするのもその一例です。自発的隷従に向かって子どもたちが習慣づけられれば、安倍首相は安泰です。
 小麦一袋、ぶどう酒一杯、小銭を少し、気前よく与えるだけで、福島原発は安泰でしたが、その構図が事故で壊れました。しかし今大手ゼネコンは、卑屈に一者にとりいり圧政を支えて、除染の名のもと身を肥やしています。
 ボエシの思考はそのように様々な適用が出来ます。自発的隷従を拒む皆様一人一人が考えるべき課題でしょう。民主主義の根幹に関わる問題です。私の発想は極めて貧弱で、ざっくばらんなコメントを歓迎します。nankaiさんに心から感謝します。