ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

民族とネイション

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」(エペソ2:19)。

*同じ国の民と訳された言葉は、スムポリテース=英語のfellow-citizen、日本語なら神の国の同胞、同じ市民くらいか。過去にない言葉で、ここに一度だけ、しかも霊的な意味で出て来る。キリストの支配される新天新地で実際成就する。人間堕落前のエデンの園を想定すると分かりやすい。敵対関係のない真に平和な天国人。

 

図書館で塩川伸明著『民族とネイション‐ナショナリズムという難問』という本を借りて読んだ。
民族とネイションはいつも気になっている言葉だ。聖書に出て来るが、現在全世界に散って住んでいる人々の起源は、ノアの洪水後に遡る。
「以上が、それぞれの家系による、国民ごとの、ノアの子孫の諸氏族である。大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出たのである」(創世十ノ三十二)。
ここで日本語訳の「国民」と訳された言葉が、ヘブル語原語でゴーイー、複数形でゴーイームである。英訳聖書を見ると一致してNATIONである。しかしこの英語の日本語訳は「国、国民、民族‥」と多様である。最新の邦訳聖書で「民族」を検索してみると、原語はヘブル語アムで、英訳はPEOPLEである。このPEOPLEはアムの英訳として圧倒的に多く、邦訳の民族は旧新約合わせて51ヶ所だけ。さらに新約聖書にはギリシャ語でエスノスという言葉が入る。対応する英訳聖書の旧約はNATIONだが、新約のエスノスはNATIONの他、GENTILE(=異邦人)も入って来る。邦訳の新約聖書で「民族」は上記51ヶ所から旧約の分を差し引いて14ヶ所。英訳のエスノスと重なるところ、そうでないところがある。邦訳も90ヶ所以上「異邦人」という訳語があてられている。これだけを取り上げても、言葉の混乱が生じて来る。一筋縄では行かない。原語は不変にしても、英訳・邦訳とも訳者の価値観が入る。例えばエスノスは非ユダヤ人、異邦人、さらにはダーウイン主義者が新しく作った差別用語RACE(=人種)という意味合いも入って来る。

そこで塩川氏は民族やネイションと共に、エスノス由来の英単語エスニシティを加えている。民族とネイションを区別するにあたってカギとなる言葉である。民族性・民族集団・民族意識などと訳されている。エスニックのほうが良く出て来るが、これも名詞で民族集団の一員などと定義されている。塩川氏はエスニックを「‥血縁ないし先祖・言語宗教・生活習慣・文化などに関して、『われわれは○○を共有する仲間だ』という意識‥が広まっている集団を指す、と考えることにする」と言っている。
従って上記ネイションにエスニックな意味合いが色濃く含まれている場合には「民族」、ネイションがエスニックと切り離して捉えられている場合に「国民」とする、という図式を提示している。絶対的ではない。そして日本語の「民族」はエスニシティと比較的近い意味合いだが、英語のネイションはエスニシティとは明瞭に異なるとも言っている。本当に難問である。


私が意識して考えていたのは、ユダヤ人が民族なのかどうかという事だった。
聖書の流れから見ると、洪水後のセムの家系にテラがいて、ユーフラテス川の向かい側に住んでいた。テラの息子にアブラムがいて、彼は父テラの家から離れ、主の導きで約束の地カナンに入った。故に彼は川向うからのという意味のイブリ人=へブル人であった。けれども創世一七ノ五を見ると、「あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民(*アム=民族)の父とするからである」とある。諸国民の父としてのアブラハムの誕生である。そのアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれる。ヤコブは主から「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と宣言される。このヤコブはエジプトに下るが、彼らの子孫は「イスラエルの民(*アム=民族)」と呼ばれた。そこから出エジプトを果たし、約束地に入ろうとする民に対して、主は「あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民だからである。あなたの神、【主】は地の面のあらゆる民(*アム=民族)の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた」(申命七ノ六)と言われた。
エスニックとしてのイスラエル民族の誕生はこのあたりからではないかと思う。
しかしイスラエルは神に背き、神政を否定して「どうか今、ほかのすべての国民(*ゴーイー)のように、私たちをさばく王を立ててください」と預言者サムエルに懇願する。それで初代イスラエルの王サウルが立てられた。イスラエル民族を主体とする国民国家の誕生と言える。
ところがこの国家は後に分裂し、最後にはバビロン捕囚で国を追われた。生活習慣・文化などは、外国の地でもはや従来通りに保つ事が出来なくなった。
その時代に書かれたエズラ書はアラム語で「イェフーダイー」、エステル書ではヘブル語で「イェフーディー」と、突然イスラエル人の名が消えて「ユダヤ」になった。
しかし紀元七十年ローマ軍によるエルサレム滅亡と、世界各地へのユダヤ人の離散により、主の約束された土地からユダヤの名は消えた。そこはパレスチナとなった。
千九百四十八年エルサレムの象徴シオンに帰還しようとする運動から、イスラエル国家が新たに誕生した。「シオニズムユダヤ人の民族国家をパレスチナに樹立することを目指した運動」という説明が百科事典にある。
それはそうかもしれない。けれども設立された国は、ユダヤ人だけ住んでいるわけではない。2割を占めるアラブ人も含めた多民族国家である。
塩川氏は「イスラエル国家はこれ(*ヘブライ語)を正式に公用語とし、公教育を通し普及させることで『国民をつくりだした』と言っている。実際にはアラビア語公用語であり、非公用語としてのロシア語やイディッシュ語、ドイツ語等々も使用されている。
宗教もユダヤ教イスラム教、キリスト教イスラム教の流れを汲むドゥルーズ教など多様である。
だから現代イスラエルエスニックとは言えない。ネイション=国民である。イスラエル民族の為の国家であるが、また「イスラエル国ユダヤ人移民および離散民の集合のために開放され、そのすべての住民の利益のために国家の発展を促進し、イスラエルの諸預言者によって予言された自由、正義、および平和に基づき、宗教、人種、あるいは性にかかわらずすべての住民の社会的、政治的諸権利の完全な平等を保証し、すべての宗教の聖地を保護し、国際連合憲章の原則に忠実でありつづける」と宣言された通り、民主国家でもある。
現代イスラエルの歴史を見ると、イスラエル民族の為の国家が前面に出て、アラブ民族などを圧迫している。アラブとの闘いが絶えないのは、イスラム教の「目には目を」という復讐の論理を、ユダヤ教徒も世俗のユダヤ人も引き継いでいるからである。

だからイエス・キリストは「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43-44)と言われた。ユダヤの偽善的な律法主義者・パリサイ人への痛烈な非難だった。

その成就はキリストの再臨で実現すると考える。その時ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ三ノ二十八)とあるみ言葉は成就する。地上は神の家族、天国の同じ市民だけになる。

塩川伸明氏は難問を良く纏めてくれた。私はさらに混乱を広めている。議論の叩き台として用いられたらと思っている。