ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

日本の一つの町:大地震・津波からの生存者の半数がPTSDの兆候を持っている。

 「私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた」(エレミヤ8:21)。
 2014年3月6日のサイエンスデイリサイトでは、上記の題でブリガムヤング大学や佐賀大学の研究者たちの調査結果が示されています。
 「福島県広野町の5,418名の住民のうち、東日本大震災で命を失ったのは2名だけでしたが、生存者は今でも正常心を保つ為に戦っています」という書き出しでした。

 広野町福島第一原発から20〜30キロ南の地域に当たります。地震津波原発放射能で大きな損害を被った町です。
 しかし地域的には放射能の影響が比較的少なく、2011年年9月30日にには、早くも「緊急時避難準備区域」は解除されました。それで町としては復興の為に積極的になったわけですが、2012年10月23日現在、まだ1割程度の544人が帰還しただけで、一向に良い兆しが見えません(*最近の情報では1,300人が帰還)。
 ブリガム・ヤング大学教授山脇仁和子氏と佐賀大学の学者たちは、戻っていた人々の中から、241人の心の健康状態を調べました。以下が研究結果の一部です。
 この241人を詳しく調べたところ、臨床学的に見るとその半数以上がPTSD(心的外傷後ストレス障害=強烈なショック体験、強い精神的ストレスが、こころのダメージとなって、時間がたってからも、その経験に対して強い恐怖を感じるもの=厚生労働省)の兆候を示し、3分の2が鬱の兆候を訴えていました。
 そうした割合は他の自然災害の後遺症で見られる程度を超えていますが、生じたのは単なる自然災害だけでなく、原発からの放射能により、住民が自宅からかなり離れた仮設住宅に移動する事を余儀なくされた事も影響しています。
 この大震災、地震記録では世界で4番目に大きなものでしたし、津波原発爆発と家の喪失も極めて大規模で、短時間に次から次へと生じました。ですから1年後の有病率は、他の事例と比べ遥かに高いものがありました。
 広野町仮設住宅住まいをした人々の平均年齢は58歳でした。かなり高齢です。そこで研究チームはそれらの人々に正しく食べる事、定期的に運動する事、仕事に出る事などを勧めました。それによりかなりの人々が精神的な立ち直りを見せたわけですが、それでも避難や帰還を巡り町はバラバラの状態となり、そうした衝撃が多くのPTSD鬱病を発生させたものと思われます。以上が記事の概要でした。
 2014年3月13日の東京新聞を見ますと、鬱病から自殺に進む人々の数は、福島県全体でこの3年間に46人となっています。被災3県の原因・動機を探ると、1健康問題、2経済・生活問題、次いで勤務の事、家庭の事などが挙げられています。
 地震津波原発事故という3つの災害が同時に生じたわけですから、かろうじて生き残った人々がPTSDになるのはけだし当然です。上記のように、広野町の事例は調査した人の半数という非常に多い数でした。(私は阪神大震災を姫路の北で経験しましたが、その時の地震のいまだかつて聞いた事もないダダダという地響きが今でも耳に焼き付いています。その縦揺れの後の横揺れが凄く、2階で母と倒壊に備えて身構えていましたが、もう一揺れでひし形のまま崩れるという恐怖を感じました)。
 まして被災者の恐怖たるや、私の比ではありません。適切な治療で病気が長引かない事を願います。しかし真実を探すブログ(http://saigaijyouhou.com/img/graph_mext_7541fukusimakennsouma20140323.png/)にあった今年3月22日のデータでは、各箇所ほぼ正常に近い線量だったのが、高野病院で突然空間線量0.45マイクロシーベルト/毎時と、平時の4〜5倍スパイク状に高くなりました。ブログ筆記者は原発放射能による一時的急上昇と見ていますが、こういう事が起こると、鬱の人々にはさらに悪化の要因となるでしょう。帰還を希望している人々にも不安の種となります。

 一方でこの広野町、3月6日のハフポスト・ジャパンサイトを見ますと、小豆島の力強い支援を受けて、オリーブを植える運動も盛んになっています。気候がちょうど合っているようです。「ひろのオリーブ村」と名付けられたその土地で、100年先を見つめ、発案者の後代の人々がその実をならせたら、どんなに嬉しい事でしょうか。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見い出そう」(伝道11:1)。 
 5月5日の河北新報でも、広野町県立中高一貫校が開校する事を報じていました。それで子どもたちが希望を持って帰って来れれば幸いですが…。