自然災害と無謀さ
「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる」と書いてありますから。』イエスは言われた。『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」(マタイ4:5〜7)。
2014年9月27日、長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山が噴火し、10月7日の時点で、死者51人、行方不明者12名を出す大参事となりました。
画像はhttp://gigazine.net/news/20140927-ontake/よりお借りしました。
御嶽山は活火山であり、2007年に小規模な噴火を起こしているとの事です。ですから7年ぶりの事です(東京新聞9月29日の社説より)。以下その社説を若干引用します。
火山噴火の予知は地震の予知と同様難しいのですが、「(九月)十日に五十回超、十一日には八十回超の微小な地震を観測した。それを受けて気象庁は、活動が活発化したことを地元自治体などに情報提供していた」とあります。
ところがその後「震源が徐々に浅くなるなど危険な兆候は見られず、十二日以降は地震回数も減ったため」、気象庁は警戒レベルを引き上げる事はしなかったそうです。
ここに気象庁という地球科学者たちの集団の大きな「罪・科」があったと私は考えます。簡単に言えばこの噴火は彼らにとって想定外の出来事だったわけです。だから社説は東日本大震災にも触れて、「われわれが学んだのは、想定外の災害が起こりうるということだ」と明確に述べています。
かつて私はiireiさんを通して槌田劭氏という優れた科学者を知り、過去ログに書きました(http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20111122/1321937403)。
科学技術と言えば、例えば『自然の摂理から環境を考える』(http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2013/08/1368.html)という優れた考察があります。このブロガーは「『自然にたいして人間が上位に立ったというガリレオやベーコンやデカルトの増長』」を説いています。彼らの意識の起源は、「近代思想に導かれて、人類を特別な存在と看做し、自然は人類の科学技術により操作できるという、己を万物の万能者(神)と錯覚した『自然支配視』」とあるように、近代から出発しており一般に正しいのですが、槌田劭氏は聖書のアダムとエバの罪にまで遡及し、人間は「原罪を意識しつつ知恵によって生きる生き方を求められるようになった」と、独特な考え方を採用しています。だから罪・咎=科を負った科学者と自称する人々のインチキを看破し、「彼らには『想定外』がものすごく多い。こうした『無知』で『無恥』な専門家たちの指示で動いてパニックになれば、分からないことだらけになって当然。私は『科学というのは罪科(つみとが)の学だと言っている。このような『科学(とががく)』はものごとをけっして全体で見ようとせず、専門領域の中で部分的真理ばかりを探究する。そして深刻な事故が起こると枝葉末節の議論に終始し、情報を隠蔽する」とずばり。火山噴火についての気象庁の無責任さを予言したかのようです。
では今度の噴火の悲劇、彼ら科学者たちだけの罪科でしょうか。私はそうは思いません。私は60名余の死者・行方不明者に、深い哀悼の意を表明するのにやぶさかではありません。
しかし御嶽山は活火山であり、いついかなる時にも「想定外」の噴火は起こり得るのです。それを承知で山に登った彼らの自己責任も問われます。その登山は冒険、或いは無謀であり、冒頭の聖句でキリストが神を試みる罪と言われた事にも通じます。神を知らなければ、それを自然と置き換えても良いと思います。
そこで『磁力と重力の発見』などで、近代科学技術に非常に詳しい元東大全共闘議長の山本義隆氏は、「…近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然に対する畏怖の念を忘れ去っていったのである」と明快に述べています(『福島の原発事故をめぐって』)。自然に対する畏れを忘れ去った…それが私たちであり、登山者でもあります。
故に東京新聞社説の末尾にあるように、「自然の脅威に、私たちは、何よりも謙虚に向きあっていくしかない」のです。もっと身近で安全な自然を家族で満喫していればと思うと、残念でなりません。