ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

加藤典洋、大波小波、百田尚樹

 「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」(箴言17:27−28)。
 201110月25日、私はブログで百田尚樹氏を取り上げ、その作品『永遠の〇(ぜろ)』にいたく感動した事を記しました(http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20111005/1317785695)。
 その時点では百田氏は優れた作家だと思っていました。

 ところが2013年頃から、百田氏はまるで豹変したかのように問題発言を開始し始め、2014年にNHKの経営委員になってから加速度的にそれらが増えました。ネットから幾つか拾ってみます。
1日本には頭の狂った「反日ジャーナリストや学者」が大勢いる。実に汚いことに、彼らは贖罪意識を持った良心的な人間のふりをする。そのため善意ある大衆は、彼らのウソを信用してしまう。彼らのせいで、日本は世界から「最低の民族」のレッテルを貼られようとしている。
2…南京大虐殺」はほぼ捏造の産物であると確信した。
3(NHK籾井会長の就任会見で、従軍慰安婦問題について「どこの国にもあった」などと発言した事を踏まえ)従軍慰安婦問題はうそ
都知事選に立候補した田母神氏の応援演説で、他の候補は人間のくずみたいなもの。
 2014年9月9日東京新聞夕刊で、文芸評論家の加藤典洋氏が、「『大波小波(*東京新聞夕刊連載)』に反論」と題した論文を投稿していました。それは8月16日の「大波小波」の欄で、加藤氏が書いた或る素晴らしい中公文庫の解説の主旨を、この欄の筆者が誤解して書いた為、あたかも加藤氏が百田氏の思想を肯定したかのように捉えた事への反論だったのです。経緯の詳細は省きます。
 この中公文庫への解説(ボツになりました)で、加藤氏は百田氏の事を上記一連の発言と行動に基づき、「愚劣」と評しました。私も賛同します。
 そして加藤氏は、「『永遠の0』を批判するには、これが下らない、でたらめでセンチメンタルな好戦的なエンタメというだけでは足りない。これが『反戦的で感動的』に読めるとしても、それでもダメな小説だというところまで言わないと、もう本当に批判したことにならない」と、厳しく批評しています。
 そして加藤氏が自ら初稿の(?)内容を披露しています。「私は『永遠の〇』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であるとことと両立する。何の不思議もない。いまではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の『感動』をそのように、操作されうるものとして受け止める審美的(*=美的)なリテラシー(*読解能力)が新しい思想の流儀として求められているのである」。加藤氏独特の難しい表現です。
 しかしここに「三・一一以後の、無意識に人々が『感動』を欲する『感動』社会化とも呼ぶべき新しい事態に対する」加藤氏の危機感があります。「感動=充足感を覚える事」がカギの言葉となります。
 ですからこの加藤氏の文章を受けて、大波小波の別の筆者は、それを「作為されたチープな(*安っぽい)感動」と述べ、「単純な『感動社会』に疑問の礫を投げるのが文学の役割であり、作家の感性だろう」と主張していました。そして百田氏とは対照的な木村友祐氏の『聖地Cs(*セシウム)』を推薦していました。実は私もこの本を読んだのですが、放射能を浴びた牛の世話をするボランティアの女性の苦闘を描いたものです。深刻な内容の反原発小説とはいえ、地道な筆致、感動とは少し違う捉え方をしました。
 感動がイデオロギー的に操作可能、なるほどと思いました。かつて高校生の頃、岩田豊雄獅子文六の『海軍』を読んで、すごく感動し、戦前に戻れたら海軍軍人になりたいと思った事があります。それほどこの本は少年たちへ、感動と共に「好戦的な」思想を煽るイデオロギー的な小説だったのです。
 今私たちは単純な感動でも、その源泉をよく吟味しないと危ない社会に突入しているようです。