心臓外科医天野篤氏の生き方
「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」(マルコ12:33)。
順天堂大学教授で心臓外科医の天野篤氏が、東大のチームと組んで、平成天皇の心臓手術を手掛けてから、もう3年になろうとしています。私もすっかり忘れていましたが、過去ログで触れました(http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20130413/1365843766).その時宿題だったのが、天野氏の著書『一途一心、命をつなぐ』を読み事でした。
天野氏は日大の医学部出身、3年前私たちが驚いたのは、あの偏差値ではダントツ1位の東大医学部の教授が、天皇の手術という事で、執刀に自前の外科医を選ばず、わざわざ順天堂大学医学部のしかも私学出身の教授を選んだ事でした。好奇心旺盛な私は最近その『一途一心、命をつなぐ』を読んで、大いに納得した次第です。
なぜ天野氏指名かという点では、私の住む松戸にある新東京病院で、かつて互いに切磋琢磨した東大病院主治医の永井先生が推したからだそうです。ちなみに新東京病院は神の手須磨久善氏が有能な外科医を呼び、そこに天野氏も招かれ、一躍有名になりました。それで赤字から黒字になり、駅前の狭い敷地から、東の郊外に広い敷地を購入、新しい病棟を建てるほどになりました。実はそこに遺跡があって、私も掘る名誉ある機会が与えられました(笑)
天野氏は日大卒業の時点で大学の医局を選ばず、千葉県の鴨川市にある亀田総合病院に入りました。そこは若くても前向きで力のある者には、早くから手術の機会を与えてくれました。それで天野氏はめきめき力をつけ、師匠を追い抜くまでに至りましたが、出る杭は打たれるで6年目にクビになりました。それで上記須磨氏が天野氏を呼んでくれたのです。
新東京病院での天野氏の働きはダントツでした。人工心肺装置を使わぬオフポンプ手術を、日本のバイパス手術の主流にまで押し上げました。それによりあらゆる合併症を最小限に止め、高齢者も持病もある人も手術適応にしました。天野氏はそこに11年間在籍し、2500例以上の手術を行っています。
この病院はその後も第一線で活躍する著名な心臓外科医を多く輩出しています。派閥も足の引っ張り合いもなく、皆が一心不乱にこの病院のブランド力を高めようと努力しました。
しかしこの病院で徹底させたのは、「手術をするだけが外科医ではない」という事です。それが並みの病院・大学病院との大差を生み出しました。その秘訣が「最高の手術とは」の章にあります。天野氏の考える手術の成功とは、実は手術室でのそれだけに止まりません。「患者さんが元気になって退院をして、普通の生活ができるようになって、社会復帰をして」という所にまで及んでいます。どの外科医がそこまでフォローするでしょうか?しかも死ぬ時にその手術を受けた事さえ忘れ、ああいい人生だったと振り返る事が出来たら、「最高の手術」だったと言えると語ります。だから天野氏にとって術後合併症とか、状態の悪化など論外という事になります。
それには術後看護師などスタッフの働きも極めて重要で、手抜きは絶対に許されません。だから天野氏自身率先して看護師の立場でも患者を看ました。その厳しさから、「陰の看護部長」という綽名までつけられました。
それほどまでの患者に対する思いやりの一端は、あの3・11の時の手術中の逸話からも分かります。心臓弁膜症再手術の最中でした。頭上の無影灯が大きく揺れ、生きた心地がしなかったそうです。しかし天野氏はここで逃げるわけに行きません。スタッフに対して「お前ら死んでも、この患者だけは助けるからな!持ち場を離れるなよ」と叫んでいました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。手術は無事終了しました。患者の命を救う為に、自分の命をかける、その極限はイエス・キリストの言われる「愛」に収束するのではないでしょうか?天野氏も最後の章でこの「愛」に触れています。
そこに至るまで天野氏は「一途一心」、ひたむきに、ひたすらにこつこつ努力を重ねて来ました。大事なのは人の2倍の努力では足りないという事です。それ位だと出る杭は打たれてしまいます。3倍努力して「出すぎた杭」になると、もう独走状態になります。 天野氏は順天堂大学教授に迎えられた時、この大学病院の生温さに閉口し、患者より組織を優先する体質に怒りを感じ、鬼神と化して大変革を行いました。患者を優先しない医者は容赦なく叱って辞めさせました。そしてこの大学病院を世界一にすべく牽引して行きました。今順天堂大学病院はその実力を十分持っていると確信します。平成天皇の手術で天野氏が執刀医として呼ばれたのも、けだし当然の事です。
翻ってこの私は組織で動く霞ヶ関に対して、この天野氏の如く人の3倍は努力して、原発推進の風穴を開けるような闘争心を持っていただろうか。否、等身大だけ。大いに恥じました。また目標に向かって背水の陣で臨み、どんな試練があろうと、ぎりぎり踏ん張る努力をしていただろうかとも。今若干挫折中の福島行についても、是非天野氏の数々の言葉を銘記しながら考え抜き、ひたすら前進したいと祈っているところです。