ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

庭の棘のある植物

 「死のとげは罪であり、罪の力は律法です(Ⅰコリ15:56)。
 重度の糖尿病の場合、パンに塗るジャムなどもカロリーを気にかけないといけない。市販のジャムには相当砂糖が入っているからである。

 そこで庭に生えている柚子の木に脚立で上り、今年10個ほど出来ている柚子の実を採ろうとして、その棘で額や指を刺され痛めてしまった。柚子の棘は枝に一杯ついており、太く鋭く長さ4〜5センチもある。枝をやたら切って地面に落としても、全て除去しない限り危険である。長靴なんて簡単に貫通し、足の裏に刺さって血が出る。

 それで今年は6個ほどで諦め、皮を剥いて砂糖は加減しながらジャムを作った。これはまあまあだった。
 それから庭にある植物で棘があるものを調べて見ると、今年伸び過ぎて枝を鋸でかなり切った夏グミにも結構ある。しかし柚子ほど棘は硬くも鋭くもないので、何とか処理出来る。

 またタラノ木の棘も比較的短いものが多くある。これは近くの林から根を抜いて持って来て移植したもので、枯れなかったが、手入れをしなかったので、あっという間に成長し、4メートルくらいまで伸びてしまった。デリケートな木なので、この機会にネットで調べてみたら、一番下の芽だけを残し上部は切り倒してよいとあった。年が明けたらやってみよう。細心の注意を払って。

 そして茨城県にいた時もさんざ苦労したいばら。青いので周囲の雑草と見分けがつくから、幹が太くならないうちに剪定バサミで切り落とす。本当は根っこから掘り出してしまうのが一番だろうが、うちの場合そう簡単に行かない。これも棘が鋭く、刺されたら相当痛い。

 棘はなぜあるのか?外敵から身を守るためとよく言われるが、神が世界の全てを創造した時、「それは非常に良かった」(創世1:31)とある。はじめに外敵は居なかった。
 最初の人アダムが罪を犯し、神の呪いの下に置かれた時、被造物の相当数が変化した。棘のある植物も全てその結果であり、責任は神にある。神がスイッチを入れたからである。
 でも神は人の罪の贖いの為、御子イエス・キリストをこの世に遣わされた。イエスは十字架にかけられる前、茨の冠を被せられ、苦しまれた。「それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。『ユダヤ人の王さま。ばんざい』」(マタイ27:29)。
 クリスマスはこの罪からの贖いを成就されたイエス・キリストの降誕を祝う時である。
 それで終わりではない。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない」(イザヤ65:17)という時がいつか来る。その新しい地にもはや茨はなく棘もない。

煽り運転加害者

 「まして、この悪者どもが、ひとりの正しい人を、その家の中の、しかも寝床の上で殺したときはなおのこと、今、私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか(Ⅱサムエル4:11)」
 福島に引っ越して来てから、この勿来周辺という田舎だからなのか、6号バイパスのような速度の出る道路で、滅多に煽り運転など見かけない。信号も結構あるし、それも長いし、覆面パトカーはしょっちゅう走っている。
 県人もそんなに速く走らない。かといって後続の車がイライラするほどの事もない。
 私の痛恨の極みは、信号が黄色の時間が極めて短いのを計算に入れてなかった事だ。とにかく短いので、青信号の時、遠くから歩行者信号をよく見ていないと、突っ込んだ時にはもう赤信号になっている。
 だからパトカーが待ち伏せしていれば、すぐ捕まってしまう。それを小名浜の中心を外れた狭い道路でやられた。まだ黄色だからと主張しても通るわけがない。反省しきり。
 翻ってこの14日に判決の出る、東名高速のあおり運転を考えた。昨年6月東名高速神奈川大井町で起きた事故の事である。報道によると「あおり運転を受け無理やり追い越し車線に停車させられた夫婦が、後続のトラックに追突され死亡した事故」である。
 煽り運転された結果、ワゴン車を運転していた39歳の女性と、後部座席にいた45歳の夫が亡くなった。
 その加害者だが、一生をかけて償うと言ったそうだ。しかしである。聖書によれば「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──」(詩篇49:7−8)とある。I被告が一生をかけても、二人のいのちの代価を償う事は出来ない。
 それ故「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない」(出21:23)とある。
 検察が懲役23年だと要求しようが、弁護側が法解釈を曲げて処罰してはならないと要求しようが、それは人の世界の事で、神の目は違うし、非常に厳しい。当然死刑である。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:19)。
 だからこそ「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです」(テモテ第一2:6)という事になる。
 クリスマスの本当の意味は、このキリスト降誕を祝う事である。そのキリストが時至り、十字架で私たち罪人の罪を全て負って十字架で死んで下さった。しかも3日目に甦られた。これが福音である。そしてそれを信じる者は誰であろうと、肉体は朽ちても、魂は永遠の天国で憩う。終わりの日には朽ちぬ体も与えられる。
 では死刑囚はどうか?もし生存中にこの救い主キリストを信じていれば、たとえ死刑になっても、その瞬間に天国(そこはパラダイス)に移る。キリストと共に十字架にかけられた強盗の一人は悔い改めて、イエスと共にそこに行ったのである。
 I被告はこのキリストを信じなければ救われない。死んだ後泣いて歯ぎしりしても遅い。私の主張ではない。聖書が言っている事である。
 

勿来学校給食共同調理場が準優勝

 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(コリント第一9:25)。
 2018年12月11日の地元紙は、勿来学校給食共同調理場が全国給食甲子園に、北海道・東北ブロック代表として出場、準優勝に輝いた事を伝えていた。こういう受賞は勿来に住む者の一人として大変嬉しい。
 この共同調理場はいわき市の南台という所にある。以前ブログで双葉町の応急仮設住宅を取り上げた事があるが、この調理場はその直ぐ北側にある。その応急仮設住宅が閉ざされ、住民の大半は現在勿来町酒井にある災害公営住宅に引っ越して来た。それも最近のブログで取り上げた。

 レシピは主食の麦ご飯に、いわき産ネギとナシによるソースを用いての、シマガツオのから揚げ、エゴマの風味を生かしたひじきとエリンギのマヨネーズ和え、流鏑馬汁、農協牛乳である。画像はネットから借用。
 地元産をふんだんに使った素朴な料理である。これが全国大会で準優勝というからたいしたものだ。

 右図のシマガツオ初めて聞いた名前である。エゴマはいわき産として時々ニュースに出て来る。その油が重宝される。

 福島に引っ越して来る前は、調理の形など全然関心が無かった。
 しかし引っ越して来てから、調理は文化だと思った。いちょう切りなど食材の切り方からして目を見張った。教会に通う者だから、毎日曜礼拝後の愛さんで、ベテラン教会員による料理の出し物は、いつも食欲をそそる。材料が素朴でも美味しいと唸らせてくれる。
 私などは独身で忙しい身だから、味噌汁に豆腐を入れる時など、その分だけ切り分けて流し込み、汁の中で切っているから、形はめちゃくちゃ、見た目にも美味しく感じない。
 福島特有ではないにしても、福島には豊かな食文化がある。また食育もしっかりされているから、若者のグループでは親がいなくても立派なものを作る。

 70歳以上の教会員が対象の「お元気です会」は、年1回だが大きな楽しみの一つである。今そのリーダーは、新たな教会の施設設計で多忙なので、今年は見送られた。参考までに2017年3月3日の会の食膳を公開する。まさにプロの腕だ。
 3・11で放射能汚染された福島だが、間もなく8年、是非出来るところから頑張って欲しいと思う。

 
 

ゴジラの時代と円谷英二

 「にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな」(箴言3:25)。
 円谷英二氏の事がこちらの地方紙によく載る。なぜか?氏は福島県須賀川出身だからだ。亡くなってから50年近くなる。
 ウイキを参照すると、その生涯の若い頃は波乱に満ちたものだった。しかしそれは後の輝かしい経歴に益となった事だろう。聖書にも「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ8:28)という有名な言葉がある。ちなみに円谷は1960年カトリック信徒になった。
 18歳で映画界に入り、19歳で国際活映巣鴨撮影所に入社、カメラマンとして本格的な活動に入った。関東大震災を契機に京都に移り、30歳の頃は早くも特殊撮影の基礎を築き始めた。
 1933年米国からキングコングが日本で公開されると、円谷はその特撮技術を習得、1940年には特殊撮影家として名を馳せるようになった。
 残念ながら1941年の太平洋戦争開始と共に、戦意高揚映画の製作に携わる事になった。ハワイ・マレー沖海戦という国策映画は、私も幼い時観たと記憶しているが、円谷の特撮が遺憾なく発揮されたと思う。
 1948年公職追放となったのは当然である。でもその技術で飯を食ってゆく事を諦めなかった。その間の作品「ひめゆりの塔」とか「雲ながるる果てに」なども観た記憶がある。
 そして1954年大ヒットとなった「ゴジラ」が製作された。当時まだ小学校2年生だったと思う。そのリアルな撮影を映画館で観て、恐怖のあまり身震いした。映画が終わるまでハラハラさせた。それは続く「地球防衛軍」「モスラ」「空の大怪獣ラドン」などでも同じだった。そしてそれらは父親が映画関係の会社にいた事から観る事が出来たのだと思う。
 だからその後は映画をほとんど観ていない。「ウルトラマン」など観た人は多いだろう。*例外は菅原文太主演の仁義なき戦い位か。これも相当リアルだった。
 1970年生涯を閉じ、東宝は「特殊技術課」を廃止し、彼の時代は終わった。
 その円谷の業績を偲び、須賀川市は「円谷英二ミュージアム」を、12月8日に完成させた。子どもから大人まで楽しめる施設になりそうだ。この施設円谷が国策映画の作成に携わった事はちゃんと書いているだろうか?
 罪深い人間が持つ光と影、裁いてはいけないが、事実として銘記しておきたい。
 

西会津の練心館

 「ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。『おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ』」(サムエル第一17:8)。
 イスラエル人とペリシテ人は宿敵同士、ペリシテ人強豪のゴリヤテは、イスラエルに一対一の勝負を提案した。ゴリヤテは長身、兜や鎧、脛当て等々で重武装し、背中には投槍があった。
 イスラエルは恐れおののいて、誰一人彼に歯向かう者は居なかった。そこで少年ダビデが出て来て、一対一の勝負となった。と言っても、ダビデの場合「投石袋」の中の石と、「投石器」だけの原始的な武装だった。到底ゴリヤテに対する勝ち目は無い。しかし一つだけ違うものを持っていた。主なる神への信頼である。これでも必ず勝てるという確信だった。「【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル第一17:47)。
 ただの信仰だけではない。投石にかけては、普段から基本的な練習を積み重ねて来た。だから相対しても、相手の弱点を見抜いており、そこに石が当たれば致命的な傷を負わせる事が出来た。「石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた」(同17:49)。
 福島に来てから会津藩戊辰戦争がいまだ盛んに喧伝されている事を知った。藩校の日新館は弓術で有名だ。上記の武具「石」に対して、こちらは弓に番える「矢」である。どちらも的を目指して放つ。この的を外さないということが、聖書では「罪を犯さない」という意味になる。
 一方2018年12月9日の福島民報では、西会津町野沢という所に「練心館」という剣道場があって、子どもたちが懸命に練習しているのを知った。
 この道場を立ち上げたのは、今年8月92歳で亡くなった山本隆夫氏。会社の退職金をはたいて作った。子どもたちに剣道の基本動作、その美しさを教える為だった。民報には「崩れない姿勢と強い気持ちで攻める心を鍛錬した」とある。これはダビデ少年にも当て嵌まるる。その道場には息子の山本裕司氏も通った。裕司氏は父が亡くなったあと、日増しに偉大な父であった事を実感しているそうだ。
 それで練心館は、裕司が引き継ぎ、名前も「練心館山本隆夫道場」に変更するという。
 父親隆夫氏のモットーは「剣は心なり、心正しからざれば剣また正しからず」というものである。いい言葉だなあと思う。まず心を正す、それから剣という順序。まず罪を悔い改めて信仰、それからクリスチャンとしての歩みという順序に通じる。



 

聖書翻訳語の変遷

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)。
 聖書のみことばは、神の御霊が最初の筆記者たちに、一つの誤りもないよう指示し、書かせられた。
 その後は写本である。そして各国の言語に翻訳されると、聖書地と風習などが異なる為、微妙なずれが生じる。
 でもそれは翻訳者たちの大きな努力により、限りなく原典に近い形で忠実に翻訳されて来た。だからプロテスタントの大半が採択している新改訳2017のあとがきでも、「聖書は永遠の神のことばであって、あらゆる時代に対して常に新しい力をもって語り、救いのための知恵を人々に与えることのできるものである」と謳っている。
 2018年12月4日の東京新聞サイトには、「『重い皮膚病』訳語消える 聖書新訳 ハンセン病連想に配慮」という見出しの記事があった。
 この新訳とはカトリックプロテスタントが共同し、31年ぶりに新訳された聖書=聖書協会共同訳の事である。
 そこでヘブル語旧約聖書に出て来る言葉ツァラアトが、以前の「重い皮膚病」に代わり、「規定の病」となったそうである。しかし「規定の病」とは何だろう。むしろますます分からなくなってしまう印象がある。原語のままか、重い皮膚病のほうが分かりやすい。
 上記新改訳2017では、そのままツァラアトとカタカナ語で用いられている。訳注として「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」と記されている。このツァラアトは、確かに病状としてハンセン氏病(昔のらい病)に似てはいるが、違う皮膚病だろう。だいぶ前の新改訳は「らい病」と訳していた。ちなみに最も古い英訳の一つ欽定訳は、「leprosy」という言葉をそのまま使ったし、その影響は世界中の翻訳聖書に及んだ。それで最近の英訳聖書を10ほど調べてみたが、「重い皮膚病」に近い形で改定されている。いまだleprosyを採択している英訳もあるが。
 聖書には譬え話が多い。或る言葉が難しくて、別の分かりやすい言葉に譬えられている。ヘブル語は日本語ほど語彙が豊富でないから、余計そうである。それで私としては、日本語で分かりやすく、且つ差別語的なニュアンスのないものとしては、「重い皮膚病」が最適かと思う。
 病気に関しては、慎重な取り扱いが必要なのは間違いない。スーザン・ソンタグという思想家は、『隠喩としての病い』の中で、エイズや癌等々について、同じように言及している。
 例えば転移性の癌の場合、前の新改訳は「」と訳し、徐々に広がる様を描いている。しかし癌には癌もどき(*近藤誠氏の造語)と言って、広がらないものもある。
 それゆえ、新改訳2017では、その個所テモテ第二2:17には反映されて、「悪性の腫れもの」と訳し直された。
 人間が罪を犯し堕落して以来、この世に病気も現われて来た。元々病原菌は人創造の時、害のないものとして単独に存在していたか、人間と共生的な関係にあった。しかし堕落後は神の「スイッチ」により、菌は劣化してほぼ悪性のものになった。けれども神の目には、思い皮膚病だろうが、癌だろうが、エイズだろうが、全て同じである。常に「罪」との密接な関わりがあるのだから。

水道事業の民営化

 「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる』」(黙示21:6)。
 2018年12月5日の福島民報に、「水道『民営化』法成立へ」という見出しのコラムが載った。まさかと思ったが、事実だった。現政権は本当にひどい事ばかりする。そして6日改正水道法が成立してしまった。蛮行もよいところだ。
 民営化の長所・短所というか、短所の目立ったのが郵政民営化だった。庶民にとって身近な存在だったものが、肥大して次第に疎遠な存在となった。リスクの多い金融商品が出回るようになり、投資信託などが郵便局の窓口で取り扱われるようになった。
 水道民営化だが、自分が描いた疑問は既にマスコミが取り上げていた。主なものとして1水道料金の上昇、2水質の悪化が特に懸念されるという。
 既に10月7日のブログでも、雇用促進住宅の民営化を取り上げ、長期的に家賃が低く抑えられるという謳い文句を、幻想だと推定した。水道もそうで、現在フランス大手の民間水道会社ヴェオリア社というのが、買収で名乗りを上げる事になりそうだ。ちなみに福島民報はフランスのパリ市を例に挙げ、ヴェオリア社などとの契約により、約25年間で料金が3・5倍になったそうである。ネットの情報ではその社員が日本の内閣府と深く関与していたらしい。ならば密議により、余計料金アップに繋がるだろう。
 料金高騰と共に水質悪化も世界中で続出し、実に世界三十三カ国のうち、二百六十七都市で、再び公営化されたそうである。
 なにしろ、いのちの水だから、家計を預かる人はもっと民営化の危険性を、声を大にして叫んで欲しい。
 冒頭の聖句は神が価なしに霊的ないのちの水を与えるという約束である。それは主に助けを求める人に提供される。これを宣言されたイエス・キリストは、最後の審判でも蛮行者に審判を下されるだろう。
 あまり深く考えすぎるとストレスになる。こうした野蛮な政権を早く引き摺り降ろして下さい!というのが、私の切なる祈りである。