ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

煽り運転加害者

 「まして、この悪者どもが、ひとりの正しい人を、その家の中の、しかも寝床の上で殺したときはなおのこと、今、私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか(Ⅱサムエル4:11)」
 福島に引っ越して来てから、この勿来周辺という田舎だからなのか、6号バイパスのような速度の出る道路で、滅多に煽り運転など見かけない。信号も結構あるし、それも長いし、覆面パトカーはしょっちゅう走っている。
 県人もそんなに速く走らない。かといって後続の車がイライラするほどの事もない。
 私の痛恨の極みは、信号が黄色の時間が極めて短いのを計算に入れてなかった事だ。とにかく短いので、青信号の時、遠くから歩行者信号をよく見ていないと、突っ込んだ時にはもう赤信号になっている。
 だからパトカーが待ち伏せしていれば、すぐ捕まってしまう。それを小名浜の中心を外れた狭い道路でやられた。まだ黄色だからと主張しても通るわけがない。反省しきり。
 翻ってこの14日に判決の出る、東名高速のあおり運転を考えた。昨年6月東名高速神奈川大井町で起きた事故の事である。報道によると「あおり運転を受け無理やり追い越し車線に停車させられた夫婦が、後続のトラックに追突され死亡した事故」である。
 煽り運転された結果、ワゴン車を運転していた39歳の女性と、後部座席にいた45歳の夫が亡くなった。
 その加害者だが、一生をかけて償うと言ったそうだ。しかしである。聖書によれば「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──」(詩篇49:7−8)とある。I被告が一生をかけても、二人のいのちの代価を償う事は出来ない。
 それ故「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない」(出21:23)とある。
 検察が懲役23年だと要求しようが、弁護側が法解釈を曲げて処罰してはならないと要求しようが、それは人の世界の事で、神の目は違うし、非常に厳しい。当然死刑である。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:19)。
 だからこそ「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです」(テモテ第一2:6)という事になる。
 クリスマスの本当の意味は、このキリスト降誕を祝う事である。そのキリストが時至り、十字架で私たち罪人の罪を全て負って十字架で死んで下さった。しかも3日目に甦られた。これが福音である。そしてそれを信じる者は誰であろうと、肉体は朽ちても、魂は永遠の天国で憩う。終わりの日には朽ちぬ体も与えられる。
 では死刑囚はどうか?もし生存中にこの救い主キリストを信じていれば、たとえ死刑になっても、その瞬間に天国(そこはパラダイス)に移る。キリストと共に十字架にかけられた強盗の一人は悔い改めて、イエスと共にそこに行ったのである。
 I被告はこのキリストを信じなければ救われない。死んだ後泣いて歯ぎしりしても遅い。私の主張ではない。聖書が言っている事である。