ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

双葉町の震災記録庫(=アーカイブ)拠点施設起工

「【主】はモーセに仰せられた。『このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう』」(出エジプト17:14

 19年2月10日の福島民報は、震災で大きな被害を受け、いまだ帰還困難区域に属する双葉町で、「東日本大震災原子力災害アーカイブ(記録庫)拠点施設」の起工式が行われた事を伝えていた。

 この施設は特に津波被害の大きかった中野地区に作られる。来年7月五輪の時に合わせてオープンするそうだ。

 それでまずこの中野地区を含めた双葉町全体の計画を見たいと思い調べた(https://www.futaba-fukkou.jp/wp-content/uploads/2018/05/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E5%BE%A9%E8%88%88%E7%94%A3%E6%A5%AD%E6%8B%A0%E7%82%B9%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85%EF%BC%88H3009%E7%89%88%EF%BC%89.pdf

 この記録庫がどこに出来るのか調べたら、いつも通う国道6号から東の海側に向って、約1・5キロのところになっている。まだ私たち一般庶民は踏み入る事が出来ない場所である。昨年末私の持って行った線量計では、この国道で北方面から双葉駅の方向に向って、毎時0.38~0.89マイクロシーベルトあった。双葉町の国道付近は、新聞報道にもあったが、南で隣接する大熊町より線量が高いところがある。五輪に間に合わせるようにとの願いは、除染で毎時0.23マイクロシーベルト以下に下がる事だが、そうやすやすと行くのかどうか。2018年11月19日福島民友の伝える放射線量は、中野区のある国道東側で、最高7マイクロシーベルトあった。

 そしてなお悪い事に、その中野地区の直ぐ南側には、広大な中間貯蔵施設があって、現在建設中もしくは一部汚染土壌の運搬がされつつある(私は見る事が出来ないので、実態は少し異なるかも知れない)。

 そうした背景のある場所に、見かけは立派な貯蔵庫を作って、津波地震で破損した品々を収集、展示し、国内外の多くの人々を視察に来させ、福島復興の加速化に貢献するという理念を説得するのだそうだ。とにかく五輪までに体裁だけは整えなければならない。

 貯蔵庫は博物館のようなものだから、資格をとった専門の学芸員の確保が必要だと思うが、そうした人材は確保出来るのだろうか?

 2月3日の民報論説では、やっかいな放射能に汚染されたモノをどうするのかといった点にも触れている。それについては「災害や原子力の知識を持つ人材は不可欠だ。分かりやすく説明する能力が求められる」とあった。

 福島県以外なら、学芸員になる為、その講座のある大学や専門学校で所定の科目を履修し、資格を得てから、各博物館等での採用試験に合格すれば良い。しかし福島県に関しては、科目を増やして難しい放射能の原理を詳しく学び、訪れる人々に易しく説明しなければならない。

 それに関しては、元東電社員の教会員が言っていたが、富岡町に昨年11月30日オープンした廃炉資料館のほうが分かりやすいかも知れない。東電による展示だが、技術的には優れた「学芸員」による解説がされるから、双葉よりお勧めかも知れない。私はまだ行っていないが、今度是非ともと思っている。

 双葉のアーカイブ施設、今後も紆余曲折の道を辿るだろう。

 

 

 

 

浪江町津島出身三瓶町議の奮闘

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています」(列王第一10:7)

 19年2月17日の礼拝後、『三瓶町議、奮闘す-浪江町津島の記録-』(18年11月発行)という本を、津島に近い立野出身の教会員から借りて読んだ。

 これは東日本大震災の日以後の福島県双葉郡浪江町、特に津島地区で、東電原発事故の為に翻弄された一町議による貴重な記録である。厳密には三瓶宝次という議員による写真や証言、そして当時の地元紙や全国紙の記事も織り交ぜながら、南相馬市出身の二上英明氏が編著者となって書かれ、動輪社という出版社から出された本である。

 浪江町津島は原発から20~30キロ圏にある。浪江駅から見て、西北西の山奥に位置し、事故当時約1400人が住んでいた。浪江町の国道6号から、川俣町を通り、福島市に繋がる国道114号が基幹となる道路だ。何か事が起こると、完全に陸の孤島になってしまう地区である。

 三瓶町議は震災が起きた3月11日の午後2時46分には、町役場の会議室にいた。かつて無い大地震で、議会は休会、全員がそれぞれの自宅などに戻り、親族の安否を求め動き回った。

 3月12日正確な情報が得られないまま、役場は津島に災害対策本部を設けた。それで浪江町民は津島に避難しようと、114号から車でそこに殺到した為、この道は完全に麻痺状態となった。この12日午後には原発事故により、10~20キロ圏にある、立野(上記教会員が住んでいた)、室原などの住民も津島へ向った。

 3月13日~14日、避難して来た被災者数は8000人以上に膨れ上がった。しかし支援物資は入って来ないので、津島の各避難所は、食料もガソリンも得られず、完全に危機的状況に陥った。

 3月15日早朝、まだ国・県・東電からの情報がないまま、当時の馬場町長は津島も危ないと見て、独自の判断で避難命令を決断・公布し、受け入れを受諾した二本松市東和地区に向って、地域住民は一斉に避難を始めた。

 三瓶氏はそれを見届けた後、避難先を転々とし、福島市飯坂町の借り上げ住宅に移った。

 3月16日の津島地区は、毎時58・5マイクロシーベルトあったという。

 それで3月22日、計画的避難地区と決定された。

 それらを回顧してみると、この津島地区は11~14日と、国・県・東電からの情報が何もなく、空白の4日間となってしまった。この間若者や子どもを含めた津島地区住民は大量の被ばくをした。

 国はこの津島地区への放射能の拡散を既に12日の時点で把握していたようだ。上記立野地区にある吉沢牧場主吉沢正巳氏の証言では(私も牧場を訪れ、吉沢氏に会った事があるが、およそ嘘などつける人ではなかった)、警察車両から出て来て作業をした人は「国はデータを隠している。もうここにはいない方がいいですよ…今回の原発事故は重大で深刻だから、国は隠す。私らも撤収して帰れって命令が来たから、帰りますが、ここにはいない方がいいですよ」と言ったそうだ。

 一方三瓶氏は国が予測した「SPEEDI」のデータを県までの段階に止め、市町村へは知らせなかったと憤る。これについては慎重な検討が必要だと思う。ネットで調べると、スピーディは事前に予測されていた図ではなく、モニタリング結果から逆算し、「後になってから分かった図」であって、当時の実態を反映させるものではなかったそうだ。刻々変化し、数千枚にも達するスピーディの図を的確に分析し、逃げる方向を決めるのは、確かに難しそうである。北西方向への放射能飛散は、3月15日以降に通過した放射能雲(プルーム)が、降雨で沈着したものだと判明したらしい。そういえば3月21日の降雨では、私が住んでいた千葉県東葛地域にも沈着した事が、後で分かった。

 その事実はとにかく、吉沢氏の証言は重要で、浪江町津島地区の住民による原発事故の原状回復及び被害賠償を求める集団訴訟提訴は、けだし当然だろう。「お金が欲しいのではない。失われたふるさとを返して欲しい!」という叫びは、真摯に受け止めなければならない。今後も起こるであろう大惨事を、国は隠すという事の教訓も、私たちは教えられる。

 ただ怒りだけでは寿命を縮める。半歩でも1歩でも希望を抱いて前進したいものだ。神に生かされている間、そうした証言を、私たち部外者に伝え続けて欲しいと願う。特に若い人たちに。 

いわきCLT復興公営住宅

「ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した」(列王第一12:25)

 復興(災害)公営住宅は、災害で家をなくした人に対して最低限の生活を出来るようにするために作られた住宅である。 

 CLTとは板の層を各層で互いに直交するように積層接着した厚型パネルの事である。このパネル自体が柱や梁となる。右サイト参照。http://www.clt-kenchiku.org/wdoc/?q=grp02

 19年2月16日いわき市下湯長谷に建てられたCLT工法による復興公営住宅を見に行った。狭い道を慎重に運転しながら前方を注視していたら、すぐに分かった。ヒノキを使ったパネルの柱が見えたからだ。非常に特異な姿を呈する木造3階建ての災害公営住宅だった。

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 東京新聞によると、これは国内最大級だそうだ。これまで見慣れて来たコンクリ5階建ての災害公営住宅は、どこでもこの規格ですぐ分かる。住む事を余儀なくされた人々には、ぬくもりを感じさせない、無機質なものとなっている。

 だから国産ヒノキをふんだんに使ったこのCLT工法住宅、現在は単価が高いので普及を妨げているが、やがては広まってゆくに違いない。コンクリだと損傷したら、重機を使って壊すしかないが、このCLT住宅は接合にボルトとビスを使っているので、容易にリサイクル出来る。

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 まだ出来たばかりだから、印象としては美しいというほかないが、何だか新しい建築文化の誕生を思わせる。ヨーロッパでは、既にこの工法で、中高層の建物が多く建っている。

 浪江出身のTさん夫婦は、この温かみのある和室が気に入って入居したが、コンクリと違って保温性に優れているから、冷暖房費の節約にもなると言う。

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 あとは避難して来た人々が安心して暮らせるように、いわき市は家賃など大幅に上げないで、と願うばかりだ。

 半壊状態の築50年近い我が家を修繕してから、俄然建築に興味を持った。時間があれば、素材に木材(竹を含む)を頻繁に使用する、「和の大家」隈研吾氏の建築など見て回りたいと思う。

戦争経験者である歴史学者直木孝次郎氏の死

「その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために」(詩48:13)

 19年2月17日、古代史研究の直木孝次郎氏が亡くなった。100歳長寿を全うしたと言える。1919年(大正8年)生まれ、1941年太平洋戦争の年に、京都帝大の史学科に入学したが、戦局の悪化で翌々年繰上げ卒業を強いられ、43年10月土浦の海軍航空隊に入隊した。

 直木氏はここで徹底した過酷な軍国精神を叩き込まれたと推測する。いわゆる特攻作戦はまる1年後の事になるが、既に上官は「圧倒的に優勢な米軍に勝つためには、お前たちに死んでもらうより他はない、命を捨て敵機、敵艦に体当たりして戦えば、日本は必ず勝つ、と激しい口調で語った」という氏の回顧談があった。「特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ」という短歌は、その過程で生まれたものだろう。

 やがて米軍の空襲が激しくなり、1945年6月土浦海軍航空隊は壊滅的な打撃を受けたそうだ。「戦いに負けて日本はよくなれどそのため死にたる人の多さよ」という短歌は、その凄惨な経験によるもので、戦争の悲惨な結果を私たちに伝えている。

 それゆえ九条の会・おおさか」の呼びかけ人の一人になったのは、氏にとっては当然の事だっただろう。

 戦後直木氏は大学に戻って古代史研究を続け、私が学生の頃『日本の歴史-古代国家の成立』(中央公論社)を出した。貪るように読んだのを覚えている。もう忘れたが、有名な『日本古代国家の成立』等々、多数の本を上梓している。続日本紀などを通して、考古学にも影響を与える大きな業績を残した。

 一方私は大学4年の時全共闘に入ったが、日本史の講義は故遠藤元男氏が続けていた。やはり続日本紀の読解が主体で、新鮮な感動を与えていただけに、教室での講義中止の要求とか、学問とは何かといった根源的な質問に、氏は立ち往生し、答える事が出来なかった。1908年(明治41年)生まれ、直木氏より11年前である。私の父は1911年生まれ、横須賀の海軍へ応召したが、同僚の多くを戦艦大和で失ったと、戦後私に語った。

 だが遠藤氏は研究を通して、戦争の愚劣さを伝えていない。

 なので戦争体験者で憲法九条を守ろうとした直木氏のような貴重な人が、世を去ってしまったことは残念である。今これを改悪し、日本が戦争を再び出来るようにしようとする国家の根強い願望と宣伝があるだけに、余計そう思う。

 

この国は愛のある国にはならない

「 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません」(ヨハネ5:42)

 これはイエス・キリストが、主として律法主義的なユダヤ人に対して言われたことばである。彼らにはキリストの説く愛がなかった。このアガペーという愛は、新約聖書で示された、イエス・キリストによる自己犠牲的な愛の事である。弟子ヨハネは「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と証言した。

 だから生まれつきの私たちの中には、この神の愛は無い。ユダヤ主義者と同じである。私もかつてはそうだった。

 2月4日の福島民報「みんなの広場」では、福島第一原発事故から8年になろうとしているのに、国が掲げる復興政策に関連して「『寄り添う』といいながらも、踏みにじる、聞くふりをするだけで聞き流す、何をしでかしても謝らず弁解するだけーという風潮」が広まっており、およそ被災地住民の幸福からは程遠いような気がするという、福島市に避難した人の痛切な訴えが載っていた。その文脈の中で、故翁長沖縄県知事が語った「この国には愛がない」という言葉を引用していた。そして自身の考える愛のある国のイメージとして「正直、愛情、誠実」を提示していた。

 そのような美徳は素晴らしいけれども、それで愛のある国にはならない。

 安倍首相をはじめとする国や官僚、経営者たちには、聖書の言う愛は存在しない。全て自己中心から出ているものだけだ。経済と産業の発展だけを最優先している、とこの福島市在住の方は言っていた。

 だから2月17日の民報にあった、被災市町村長アンケートで、トップは人口減への対策要望だったが、二番目に被災者の心の復興を挙げていたのは当然だ。けれども心の長期ケアが必要だと嘯いても、何の解決にもならない。

 私たちは信徒として神の愛を伝えてゆくしかないと信じる。例えば福島に来て知った事だが、教会が強力にテコ入れしているのが、聖書の無償贈呈というギデオン協会の働きである。私も協力している。

 中学や高校など若い人々が通う学校のそばで、許可を得て聖書を直接生徒に手渡すのである。結構受け取ってくれるし、学校で話題にもなっている。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(伝道12:1)とあるが、心のケアの為には、途方もない長い年月が必要なのだ。ましてキリスト教徒は人口の1パーセント以下という、「先進国」中最低のレベルの日本だから、余計そうである。

 いつも被災地を追われた私の教会の牧師が言う事だが、否定的な言葉を幾ら並べても、問題の解決にはならない。1歩でも半歩でも、前に進まなければ、解決の糸口さえ掴めないのだ。

 私と同じ歳、無職で共通する福島市在住の方、是非悲観的にならず、いのちを縮める事なく、聖書に触れて前向きに歩んで頂きたいと、切に願う。教会の百数十名を超える会員の半数が被災地出身、愛に溢れていると言っても過言ではないからだ。

東日本大震災で壊れた益子焼の再生

「その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない」(イザヤ30:14)

 19年2月14日の東京新聞は「被災の益子焼 『持続可能な美』創る 東日本大震災の陶片で作品」という見出しで記事を載せていた。

 栃木県益子町は、2011年3月11日震度5強という大きな地震に見舞われた。地震学者はその凄さを確かめる為に、よく墓地の墓石を見に行くが、ネットで見てもその強烈さが良く分かる。

 益子焼で有名な窯元の登り窯は、ほぼ全半壊の状態になってしまったそうだ。益子焼の器は一瞬にして瓦礫の山となった。それで多くの人がそこを去った。

 当時私は千葉県松戸市にいたが、それ以前は茨城県鉾田町にいた。それでよく笠間市に行って、笠間焼きの光景を写真に撮ったりしていた。勿論そこも相当な被害を受けた。

 家の隣の若い陶芸家はバイクで事故を起し、やっと退院という時に大震災に遭遇した。電気窯を自宅に据えて、毎日陶芸に励んでいた。私にとって衝撃的だったのは、その彼の窯にあった陶器が壊れ、自分自身も体調が昔のように良くならず、前途を悲観して自殺してしまった事だった。

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 教会で求道中だったとの父親の話だった。駅前にあったその教会が少し離れた所に立派な会堂を建てた。そこでの葬儀だった。私は松戸からそこに行った。交友の日々を思い出すと、震災さえ無ければ、元気とは言わずとも、陶芸を続けていただろうにと思った。父母とも良く知っているので、息子に先立たれた無念さを思うと、涙がこぼれた。写真は2005年のもの。

 東京新聞は割れた益子焼の陶器の破片を土に混ぜ、新たな美術品を制作する試みが、英国の建築家の手によって成されている事を伝えていた。

 作品は東京銀座の資生堂ギャラリーで、3月17日まで展示されている。

 「益子焼の陶片の粉と、益子町の土を混ぜて陶土をつくり、石こうの型に液状化した陶土を流し込む成形法」で、復活した登り窯を用いて製作したというのが独特である。

 再生された日常品で新たな美しさを表現するという発想は、とても大切だと思った。これなら又大震災がやって来て、壺が容赦なく打ち砕かれても、否壺でなくても、一時の悲しさから抜け出し、新たな創作が出来るという希望を持たせてくれるからだ。

 

浪江にイオンはどうなのか

「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」(箴言21:5)

 19年2月13日の福島民報は、「浪江にイオン進出」という見出しの記事を載せていた。えっと思った。

 イオンは千葉県千葉市に本拠のある流通トップの会社である。郊外型の大規模店は周囲を圧倒する。

 2018年6月5日にオープンしたイオンモール小名浜店は、小名浜港に面しており、まだ工事中の時から、本当に巨大な建物だと思い、印象に残っている。

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 ここのイオンには福島県中通り浜通り北部、そして茨城県からも買い物客がやって来るから、いつも駐車場は一杯で、ずっと遠くに置き、歩いて来なければならない時がある。隣接していわき・らら・ミュウという大きな物産店があり、アクアマリンふくしまという水族館もあるので、まず商業的に失敗して欠損を招く事はないだろう。

 逆に古くからある小名浜の小規模な店は、どんどん店じまいをしている。だいたい道は狭いし、駐車場も無い位だから、道を拡幅し1階と屋上その他に1300台の車を収容するイオンには全くかなわない。

 しかし教会の友人によると、あまりに大き過ぎて、年配の人はほとんど行かないそうである。若い人たちに人気がある。ポレポレシネマズいわき小名浜も、そうかもしれない。

 なのでこの小名浜店に比べると、国道6号沿い、町役場近くにこの夏出来るという浪江店は、どうなのだろうか。

 浪江町は中心部で指定解除になったものの、まだ帰還困難区域が大半残っている。それで人口はこの1月現在896人しかない。6号の利便性を考えると、南はいわき市北部の四ツ倉、そして最近人口の増えている広野、楢葉からは買い物客は来るだろうが、北の富岡、大熊、双葉はまだ帰還出来ない人々が多数いる。人口はゼロかごく少数である。あと南相馬市の中心原町区あたりからも、人は来るかも知れない。

 浪江は昨年「土の歌」を歌う為に出かけ、オープンしたばかりのいこいの村なみえに一泊したが、まだ食事の用意が出来ていなかった。それで参加者は近くのコンビニで買うか、あらかじめ作って持ってゆくしかなかった。非常に不便な思いをした。

 そういう面では浪江の住民は喜ぶだろう。イオンの事だから、計画は利益をもたらすかも知れない。でも分からない。イオンが地元の利益を吸い上げ、中央に持って行ってしまうなら、それこそ毎度言う事だが、災害便乗型資本主義の典型となる。民報は町民の帰還促進につながると期待するが、そうは問屋が卸さないというのが、数回通った者の実感である。