ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

浪江町津島出身三瓶町議の奮闘

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています」(列王第一10:7)

 19年2月17日の礼拝後、『三瓶町議、奮闘す-浪江町津島の記録-』(18年11月発行)という本を、津島に近い立野出身の教会員から借りて読んだ。

 これは東日本大震災の日以後の福島県双葉郡浪江町、特に津島地区で、東電原発事故の為に翻弄された一町議による貴重な記録である。厳密には三瓶宝次という議員による写真や証言、そして当時の地元紙や全国紙の記事も織り交ぜながら、南相馬市出身の二上英明氏が編著者となって書かれ、動輪社という出版社から出された本である。

 浪江町津島は原発から20~30キロ圏にある。浪江駅から見て、西北西の山奥に位置し、事故当時約1400人が住んでいた。浪江町の国道6号から、川俣町を通り、福島市に繋がる国道114号が基幹となる道路だ。何か事が起こると、完全に陸の孤島になってしまう地区である。

 三瓶町議は震災が起きた3月11日の午後2時46分には、町役場の会議室にいた。かつて無い大地震で、議会は休会、全員がそれぞれの自宅などに戻り、親族の安否を求め動き回った。

 3月12日正確な情報が得られないまま、役場は津島に災害対策本部を設けた。それで浪江町民は津島に避難しようと、114号から車でそこに殺到した為、この道は完全に麻痺状態となった。この12日午後には原発事故により、10~20キロ圏にある、立野(上記教会員が住んでいた)、室原などの住民も津島へ向った。

 3月13日~14日、避難して来た被災者数は8000人以上に膨れ上がった。しかし支援物資は入って来ないので、津島の各避難所は、食料もガソリンも得られず、完全に危機的状況に陥った。

 3月15日早朝、まだ国・県・東電からの情報がないまま、当時の馬場町長は津島も危ないと見て、独自の判断で避難命令を決断・公布し、受け入れを受諾した二本松市東和地区に向って、地域住民は一斉に避難を始めた。

 三瓶氏はそれを見届けた後、避難先を転々とし、福島市飯坂町の借り上げ住宅に移った。

 3月16日の津島地区は、毎時58・5マイクロシーベルトあったという。

 それで3月22日、計画的避難地区と決定された。

 それらを回顧してみると、この津島地区は11~14日と、国・県・東電からの情報が何もなく、空白の4日間となってしまった。この間若者や子どもを含めた津島地区住民は大量の被ばくをした。

 国はこの津島地区への放射能の拡散を既に12日の時点で把握していたようだ。上記立野地区にある吉沢牧場主吉沢正巳氏の証言では(私も牧場を訪れ、吉沢氏に会った事があるが、およそ嘘などつける人ではなかった)、警察車両から出て来て作業をした人は「国はデータを隠している。もうここにはいない方がいいですよ…今回の原発事故は重大で深刻だから、国は隠す。私らも撤収して帰れって命令が来たから、帰りますが、ここにはいない方がいいですよ」と言ったそうだ。

 一方三瓶氏は国が予測した「SPEEDI」のデータを県までの段階に止め、市町村へは知らせなかったと憤る。これについては慎重な検討が必要だと思う。ネットで調べると、スピーディは事前に予測されていた図ではなく、モニタリング結果から逆算し、「後になってから分かった図」であって、当時の実態を反映させるものではなかったそうだ。刻々変化し、数千枚にも達するスピーディの図を的確に分析し、逃げる方向を決めるのは、確かに難しそうである。北西方向への放射能飛散は、3月15日以降に通過した放射能雲(プルーム)が、降雨で沈着したものだと判明したらしい。そういえば3月21日の降雨では、私が住んでいた千葉県東葛地域にも沈着した事が、後で分かった。

 その事実はとにかく、吉沢氏の証言は重要で、浪江町津島地区の住民による原発事故の原状回復及び被害賠償を求める集団訴訟提訴は、けだし当然だろう。「お金が欲しいのではない。失われたふるさとを返して欲しい!」という叫びは、真摯に受け止めなければならない。今後も起こるであろう大惨事を、国は隠すという事の教訓も、私たちは教えられる。

 ただ怒りだけでは寿命を縮める。半歩でも1歩でも希望を抱いて前進したいものだ。神に生かされている間、そうした証言を、私たち部外者に伝え続けて欲しいと願う。特に若い人たちに。