ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

この国は愛のある国にはならない

「 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません」(ヨハネ5:42)

 これはイエス・キリストが、主として律法主義的なユダヤ人に対して言われたことばである。彼らにはキリストの説く愛がなかった。このアガペーという愛は、新約聖書で示された、イエス・キリストによる自己犠牲的な愛の事である。弟子ヨハネは「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と証言した。

 だから生まれつきの私たちの中には、この神の愛は無い。ユダヤ主義者と同じである。私もかつてはそうだった。

 2月4日の福島民報「みんなの広場」では、福島第一原発事故から8年になろうとしているのに、国が掲げる復興政策に関連して「『寄り添う』といいながらも、踏みにじる、聞くふりをするだけで聞き流す、何をしでかしても謝らず弁解するだけーという風潮」が広まっており、およそ被災地住民の幸福からは程遠いような気がするという、福島市に避難した人の痛切な訴えが載っていた。その文脈の中で、故翁長沖縄県知事が語った「この国には愛がない」という言葉を引用していた。そして自身の考える愛のある国のイメージとして「正直、愛情、誠実」を提示していた。

 そのような美徳は素晴らしいけれども、それで愛のある国にはならない。

 安倍首相をはじめとする国や官僚、経営者たちには、聖書の言う愛は存在しない。全て自己中心から出ているものだけだ。経済と産業の発展だけを最優先している、とこの福島市在住の方は言っていた。

 だから2月17日の民報にあった、被災市町村長アンケートで、トップは人口減への対策要望だったが、二番目に被災者の心の復興を挙げていたのは当然だ。けれども心の長期ケアが必要だと嘯いても、何の解決にもならない。

 私たちは信徒として神の愛を伝えてゆくしかないと信じる。例えば福島に来て知った事だが、教会が強力にテコ入れしているのが、聖書の無償贈呈というギデオン協会の働きである。私も協力している。

 中学や高校など若い人々が通う学校のそばで、許可を得て聖書を直接生徒に手渡すのである。結構受け取ってくれるし、学校で話題にもなっている。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(伝道12:1)とあるが、心のケアの為には、途方もない長い年月が必要なのだ。ましてキリスト教徒は人口の1パーセント以下という、「先進国」中最低のレベルの日本だから、余計そうである。

 いつも被災地を追われた私の教会の牧師が言う事だが、否定的な言葉を幾ら並べても、問題の解決にはならない。1歩でも半歩でも、前に進まなければ、解決の糸口さえ掴めないのだ。

 私と同じ歳、無職で共通する福島市在住の方、是非悲観的にならず、いのちを縮める事なく、聖書に触れて前向きに歩んで頂きたいと、切に願う。教会の百数十名を超える会員の半数が被災地出身、愛に溢れていると言っても過言ではないからだ。