ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

人間失格と信徒失格

「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」(詩篇1:1-3)。

信徒になってから久しぶり、太宰治の『斜陽』や『人間失格』を、文中に出て来る聖書の引用や、それと思われる個所に注目しながら読んでみた。
彼のファンならこれらの作品を称賛するかもしれない。
しかし私は読んだ後、暗い気持ちになるだけで、とても前を見詰めて歩く気分にならなかった。もう二度と太宰は読むまいと思った。例外は『走れメロス』くらいか。メロスとセリヌンティウスとの友情は、旧約のサムエル第一18:3に「ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ」とある如く、ダビデヨナタンとの友情を彷彿とさせるからだ。
なぜ太宰は自殺未遂をし、最後には玉川上水で本当に愛人と共に自殺してしまったのか?
ネットを見ればごまんと解説が載っている。けれども私は信徒として、『斜陽』と『人間失格』からそれぞれ、引用された聖句と、彼自身による神のイメージを取り上げれば、十分説明がつくと思っている。
「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい』(マタイ一〇ノ二十七~二十八)。
自分は神にさへ、おびえてゐました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じてゐるのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向ふ事のやうな気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです」。
共通しているのは神への恐れとおびえである。
彼は自分の罪深さを自覚していたが、その結果として、神の罰しか信じられなかった。良く聖書を読んでいたとは思うが、神の本質をつかむ事が出来なかった。
「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」(ヨハネ第一4:16)。ヨハネイエス・キリストとずっと共にいて、イエスのうちに神の愛という本質を見抜き、その証人となった。
太宰は罪に対する神の罰と審判、そしてゲヘナという場での永遠の滅びしか信じられなかった。だからいつも神を恐れ、神に怯えていた。
ところが彼が引用した聖句の「恐れる」という言葉には、別に畏敬するという意味がある。畏という言葉は鬼の頭と虎の爪から成るそうで、それは恐ろしい言葉かもしれない。しかし畏敬とか畏怖は、かしこまる事、敬服する事という意味もある。
「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」(黙示19:5)
この聖句は、ただ神を恐れ、怯えているだけなら説明がつかず、到底神を賛美する気にならない事を教えている。神のしもべらはここでは敬服しているのだ。
だから神を畏れる者は相手が優れていると尊敬するのである。それもまた神の御手によるものだから、心底相手を尊敬するなら、相手にも自然に分かる。
太宰は「自分には、あざむき合ってゐながら、清く明るく朗らかに生きてゐる、或日は生き得る自信を持ってゐるみたいな人間が難解なのです」と『人間失格』の中でつぶやくが、うわべだけのクリスチャンを揶揄していたのかもしれない。
それではこの自分はどうかと言うと、人間失格どころか、クリスチャン失格と言わざるを得ない。「さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです」(ローマ5:16)とあって、ひとたび神の恵みにより、私は義と認められたにもかかわらず、ますます罪深くなるばかりである。太宰をさばく資格など全く無い。
偉大な伝道者パウロもこの世に肉体を持って生きているうちは、「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」と告白し、「本当に惨めな人間です」とも言っている。
結局はその罪深さの中から、日々悔い改め、ますます唯一聖である方を畏敬し、内に住まう御霊に委ねるしかない。そうすれば御霊は「愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった実を与えて下さる。
太宰は偽善なクリスチャンばかり見ていたかもしれないが、本当に神を畏敬し、相手を尊敬し、へりくだって生きて行けば、御霊の実の一端を証する事が出来るだろう。
 

原民喜の死

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」(ローマ6:4)

 バプテスマは通常「洗礼」と訳される。罪の汚れを洗い流す儀式といった意味で用いられる。しかしそれは間違っている。正しくは「浸す」というギリシャ語の動詞から出た名詞で、「浸礼」が適切な訳である。人は水に浸されれば、短時間で死ぬ。一方イエス・キリストは十字架で死に、葬られ、三日目によみがえられた。それを良き知らせ=福音と言う。その事への信仰で人は救われるが、次のステップとして、キリストのからだである教会に加わり、そのキリストを証するという大切な任務が与えられている。

 その教会への加入の時実施されるのがバプテスマである。それはキリストの死・埋葬・よみがえりを象徴的に表す儀式である。だから人は豊富な水のあるところで、その中に浸される。それはキリストと共に死んだ事を表わす。短時間で本当に死んでしまうが、教会の儀式は一度全身を浸し、すぐ起き上がらせる。一瞬の出来事である。起き上がり、新たに教会を通しての神の栄光を表わすようになる第一歩が、「新しいいのちに歩む」という事である。自分のうちに巣くう「罪」が全く消えて、完全にきよい者となったという意味での儀式ではない。それどころか、聖書のみことばを通し、ますます自分が汚れた、傷だらけの器である事が分かって来る。罪深さをいっそう自覚するようになる。逆にそれを通し、聖いのはただ神だけという事を知らされ、それゆえに神の聖名を讃える。そこで神は人を聖いと見做されるのである。

 原民喜という人の名前は、戦後横須賀から帰還した父親の書斎にあった本で知った。代表作とも言える『夏の花』がそこにあった。広島に帰省中の一九四五年八月、投下された原爆の被災者となるが、奇跡的に無傷に近い状態で生き延び、その作品を執筆した。
 まだ中学生位の歳だったが、読んで初めて原爆の悲惨さを覚えた。その後再読する機会は無く、詳しい内容は忘れてしまった。
 今回図書館で梯久美子というノンフィクション作家の書いた『原民喜』という本を借りて読んでみた。
 衝撃的だったのは一九五一年、私の生まれ故郷である東京都杉並区西荻窪近くの省線国鉄の事で現在のJR)のレールに身を横たえ自殺した事だった。当時五歳だったので、父はその事に触れなかったのだと思う。
 実は父は一九四八年、作家太宰治が、これまた生家に近い玉川上水で、愛人と共に身を投じ自殺した場所を見に行っている。後になって父に背負われてそこに行ったが、鬱蒼と木々の生えている下の濁流を眺め、恐怖におののいた事を良く覚えている。
 太宰が聖書と接点を持っていた事はよく知られている。作品の中で頻繁に聖書個所が引用されている。それらを見ると、彼の読み方が中途半端でなかったのは間違いない。しかしそれはあくまで教養としての聖書であり、救い主イエス・キリストを通しての神の愛が、心の琴線に触れる事は無かった。だから最後はユダと同じように、自殺で終わってしまった。
 では原民喜はどうかというと、一五歳の時に姉から譲り受けた聖書を読んでいる。彼も姉の伝えたキリストの愛に心を惹かれている。
 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」(マタイ六ノ二十六)は、太宰と同様彼の気に入っていた聖句だった。
 しかし梯によれば、彼が教会に通った形跡は無かったそうである。
 父や姉の死と向かい合い、死んでどうなるのかという思いは、彼の心に終始付き纏っていたが、聖書にある「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ六ノ二十三)を彼に伝える者は誰もいなかった。
 原爆投下を目の当たりにし、死者の中からほぼ無傷のまま生かされた彼は、その「惨タル光景」の証人として生きようとした。戦後の貧しい生活の中で、必死になって自力で生きようとした。しかし「死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」(ローマ六ノ十三)とあるように、生かされ神の道具として身を献げるべき事を伝える者もいなかった。
 荒涼とした人生の晩年に「虚無感」を抱きつつ死を決意した彼を翻意させ、信仰に至らせる者はいなかった。
 カトリックを自称する遠藤周作と親交があった。しかし遠藤が世に伝えたのは何か?「無力なイエス、何もできなかったイエスの悲惨な死」。だから遠藤は原をイエスに重ねた。原の凄惨な自死を「何てきれいなんだ」と記した。

 しかしイエスの十字架での死は、断じて無力の為ではなく、何も出来なかった為でもない。そこを間違うと、イエスの復活=良い知らせ=福音は無くなってしまう。パウロという伝道者は「もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」(コリント第一15:16-19)と言っている。実際には聖書のキリストは「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」(ピリピ2:6-9)とあるように、今も生きている全能の神である。

 原は原爆の悲惨さを宣べ伝えるべく生き延びた。しかし戦後の大衆はその事より、毎日を生き抜く事で必死だった。原の言い分に耳を傾ける人々は次第に減って行った。

 原の自殺の真因はいろいろ取り沙汰されているが、良くは分からない。聖書のみことばが正しく彼に伝わっていれば、彼はその労苦の中に幸せを見出す事が出来ただろう。しかしそうではなかった。「すべては空しく、風を追うようなもの」となってしまったから、サタンの誘う自殺へと追い立てられたのではないか。

 私たちは聖書の救い主イエス・キリストを正しく伝えなくてはならない。

まだ最高裁が

「主は彼らの不義をその身に返し彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神【主】が彼らを滅ぼされます」(詩94:23)。

酩酊様歩行が進んで何事もテキパキ出来なくなっている。ブログの更新も遅れがちだ。

そんな中10月1日の朝日新聞原発集団訴訟の二審判決が仙台高裁であった事を伝えていた。相馬に住むブログ友だちが9月30日に注目するよう促してくれたので、それを銘記していた。

高裁の判決の重要な点は、東電のみならず国の責任を明確に認めた点である。「不誠実ともいえる東電の報告を唯々諾々と受け入れ、規制当局に期待される役割を果たさなかった」とあった。なかなか名調子の文章だと思う。裁判官は机上の空論ばかりと思っていたが、今度の高裁裁判官は原告から聞いていた事を実際に見て実情を確信したようだ。「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです』」(ヨハネ20:29)。

勿論原告団は喜びに包まれた。一方で国も東電も判決内容を精査し、対応を検討してゆくといった、共通した無味乾燥な言葉の羅列で終わり、1日の朝日報道を見る限りでは、謝罪の言葉は見つからなかった。

この対応を忖度すると、国も東電も「まだ最高裁がある、最高裁があるんだ!」と、昔の映画の絶叫調ではなく、不義を心の奥底に秘め、冷めた感覚でつぶやいたに違いない。

私はと言えば、国道6号を北上し、原発被害で惨状の西側を幾度か見て来た。9年半経過したところで、ほぼ変わりはない。賠償をめぐる住民同士のいがみ合いも、福島に引っ越して来た4年半前までは、かろうじてその声を拾う事があった。現在はほとんど聞かれない。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)とある教会の前向きな姿勢を除くと、どこを歩いても分断のまま、復興公営住宅で隣人同士和やかな語り合いのシーンなど見た事がない。皆孤立しひっそりと暮らしている。

東の海側は国の息のかかったイノベーション・コーストだ。エリートの集団だから、被災者に対しては箸にも棒にもかからない対応をする。先日のブログで触れた東日本大震災原子力災害伝承館は9月20日オープンしたが、そのパンフの裏に語り部講話というのがある。

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それがやはり9月23日の朝日新聞で論じられていた。語り部は実際の被災者だが、彼らは加害者である東電や、国を批判的に語る事は出来ないようになっている。伝承館側はそれを「公的な施設で行うことはふさわしくないと考えている」と一蹴する。だから上の画像の中にある「複合災害を経験した方々の生の声を聞き、当時の追体験ができます」とは白々しい嘘だ。この嘘を聞く為の入場料は600円もする。岩手県東日本大震災津波伝承館は無料との朝日の指摘があった。

結局私には神である主に、不義を行う者を滅ぼして下さいとの祈りがあるだけだ。この全知全能の神を得ていない人なら、怒りと絶望で自滅するかもしれない。最高裁でそんな光景が見られなければ幸いだが。

東日本大震災・原子力災害伝承館について

「正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す」(箴言10:11)

20年8月17,18日で福島県双葉郡の幾つかの施設を視察して来た。そのうちに一部指定解除となった双葉町アーカイブ施設「東日本大震災原子力災害伝承館」という長ったらしい名前のある場所も入っていた。3・11の遺物保存庫である。

原子力明るい未来のエネルギー」という極めて有名な看板は、双葉町の国道6号から左折し、双葉駅に向かう途中に掲げられていたそうだが、私は実物を見ていないので、是非見ておきたいと思った。解体された後、伝承館で展示される予定だったからだ。

しかし7月21日の朝日新聞によると、看板が大き過ぎてこの伝承館内での展示が難しいとあった。

さらに8月25日の朝日新聞の報道では、膨大な資料や映像のどれを選んで展示するかについては、有識者会議の議事録が非公開とあり、選定基準が全く市民には分からなくなった。この有識者は6名で、さらに復興庁や経済産業省の役人がオブザーバーで参加したという。新聞に載った画像では、黒塗りの個所が一杯あった事を伝えていた。こういう手法は前内閣の時の常套手段である。

するとこの看板についても、今なお原子力エネルギーを維持してゆこうとする守旧派にとっては、はなはだ都合の悪いものとなる。従って上記役人らはオブザーバーであっても、「会議参加者」の意味ではない。別の意味「監視員」そのものである。私はこの看板が伝承館内部に展示されない理由は、彼らに因ると推測している。視察してみてそんな事はないというのが実感だったからだ。原子力災害伝承館でもあるわけだから、看板はまず館内の目立つ所に掲げるのが筋だと思う。彼ら監視員が介入してそれをボツにしたのはあり得えると思う。

双葉郡の国道6号を車で通ると、東の海側では経済産業省の指導の下で、イノベーションコーストという、意味不明の構想による施設が多く完成した。およそ市民とは無関係のものがほとんどだが、これをもって福島復興が声高に叫ばれている。

一方で国道6号西側は、富岡町の夜ノ森地区から大熊町双葉町にかけては帰還困難となっており、今なお柵だらけである。この対比は鮮明である。復興は名ばかりという町民の嘆きの声が方々から聞こえて来る。

そういう状況を6号から車で眺めていたら、突然双葉町中野地区に向かう新しい道が出来ていた。それまで全くなかったのである。前後して信号があるが、ここにはまだ出来ていない。東日本大震災原子力災害伝承館へという看板と矢印だけである。それで初めてこの道路を通って東の海側に進んで行った。

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そうしたら広大な更地の低地にひときわ目立つ建物が目に飛び込んできた。それがこの伝承館だった、と思ったのは間違いで、まず道路側に双葉町産業交流センターというのが出来ていて、その裏が伝承館だった。こうした施設に至る道は立派で、いち早く作ってしまう。

実は以前8月にはオープンという予定だったが、コロナ問題などで延期され、9月20日開館となっている。初代館長は長崎大学の高村昇教授になる事が決まっている。

この人は原発事故当時から目立っていて、特に福島の小学校児童は、毎時10マイクロシーベルト以下であれば大丈夫と言っていた。原子力村と関係の深い人だ。

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富岡町の東電廃炉資料館が、東電の立場からの映像や展示物で満ちているのと同じように、この双葉町伝承館も国の視点から、都合の悪い資料を排除してオープンさせるのは間違いない。換骨奪胎である。

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繰り返す。この大きな建物に「原子力明るい未来のエネルギー」の看板が入らない筈は無い。

 

よく相談しないと計画は倒れる

「よく相談しなければ、計画は倒れる。多くの助言者によって、それは成功する」(箴言15:22)。

国の長が辞める理由の主たるものは、指定難病「潰瘍性大腸炎」の為、これ以上執務が続けられないという事だそうだ。

それはそうだろう。私自身は大腸の上行結腸の炎症(クローン病疑い)で、1989年手術した。おなかのひどい痛みで苦しみ、大阪の茨木市から神奈川の最初の執刀医のいる病院まで、車で駆け込んだ記憶がよみがえる。無謀にもよく車でと反省した。

しかし実情はそんな事ではない。Aは通称モリカケ・桜に、コロナのマスク、ごく最近では黒川弘務東京高検検事長の定年延長問題など、あるとあらゆる不正を独断で行って来た。国民の怒りは頂点に達していたが、全て真摯な回答を拒否した。

バビロンの王ネブカドネツァルは「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか」(ダニエル4:30)と言ったが、Aもそれを目指していただろう。独裁者として戦後の平和国家を潰し、憲法を改悪し、日本を戦争の出来る国にする。何と恐ろしい企みだった事か。

そのように一人奢り高ぶると、上記聖書箇所にあるような、良い相談者、多くの助言者がなおざりにされたり、無視されたりする。まして自分と意見の合わない者からの貴重な助言は、真っ向から反論する。対抗馬も潰そうとする。

それに対して国民は黙っていなかった。私は神への祈りによって「みこころでないなら、引きずり降ろして下さい。でもみこころが成りますように」と祈り続けて来た。大阪などではnankaiさんのブログにあるように、Aやめろ!という執拗なデモが繰り返し実行され、退陣が要求された。そうした全国のありとあらゆる抗議行動(無言のつぶやきも含め)がAを倒したのだ。まるで60年安保で、彼の祖父が国会を取り巻く壮大なデモにより退陣を余儀なくされたのと同じように。私自身は執り成しの祈りに、神が介入されたと信じる。「これは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最も低い者をその上に立てることを、いのちある者たちが知るためである」(ダニエル4:17)。

繰り返すが、Aは身近に本気で相談に乗る人を置かず、「敵」を含めた各界の助言者たちの忠告に耳を傾けなかった。それを踏まえての後継者養成なんて眼中になかった。裸の王様の結末はみじめなものだ。

「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。彼らが反逆の家だからである」(エゼキエル12:2)。

しかしAが辞めたからといって油断は出来ない。この終末の時代次々と横暴な者たちが登場するからだ。心静めて神に全てを委ねる他ない。

 

日航機墜落後の意外な事実

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです」(ローマ2:16)。

毎年8月になると、日航機123便が御巣鷹山に墜落した事を銘記し、亡くなった520名を追悼する催しが新聞記事に載る。

あの日1985年8月12日は、私の母が神奈川県の相武台病院に入院しており、翌日見舞った後、病院内のテレビの巨大なスクリーンに映し出された衝撃的映像に、目が釘付けになっていた。

後に新聞記事など詳しく読んで、報道された通りだなと信じていた。原因はこのジャンボ機の圧力隔壁がボーイング社の修理ミスで破損し、垂直尾翼を吹き飛ばし操縦不能になった為とされた。説得力があったように記憶する。また遺体のひどい損傷も、時速520キロの飛行機が山腹に激突したら、当然そうなるだろうと思っていた。4名の生存は奇跡だと考えた。自衛隊のヘリによる救出活動・捜索活動も、猛暑の中良くやったなという感じがした。

それに異を唱え、数冊の本に纏めたのは青山透子氏。元日本航空客室乗務員とあった。

今回図書館で『日航123便墜落‐遺物は真相を語る』を借りて読んだ。東大大学院博士課程を出た秀才である。勿論国語力抜群だろう。論証は鋭い。

ところが読みながら、流れが頭にすっと入って来なかった。繰り返しが多いような気がした。行きつ戻りつ試行錯誤を重ねて、やっと完成させたような感じだった。

しかし私には理由が分かった、というより推察出来た。青山氏は独自の観点から調査報告に疑問を示し、真相は別にあると提唱したのだが、無念にも亡くなった520名の事を偲び、そのままでは浮かばれない、事実を隠す人々を絶対許せない、という意思表示を何度もしている。

この許せないという気持ちが心を占めすぎると、どうしても文章に揺らぎが生じて来て、体系的な形になれなかったのではないか?と推定したのだ。

それはとにかく、「遺物は真相を語る」は、私たちが抱いていたものとは全く異なっていた。

まず映像ではシャープに見えたジャンボ機の圧力隔壁だが、捜査が始まる前に先駆けした自衛隊員が、何とエンジンカッターでバラバラに切り重ねてしまったそうだ。これで詳細なところが分からなくなった。

次に遺体の事だが、損傷があまりに凄く、炭化した状態のものが多かったそうだが、他の飛行機事故で遺体を見て来た医師らによると、これほどひどいものは見た事がないとの事だった。ジェット燃料に因るものだとすれば、そういう状態にならないという。

ここでは青山氏の集めた化学分析の資料がモノを言う。つまりジェット燃料には絶対含まれていないガソリンや硫黄が、機体から多く検出されたという。硫黄は今は別にしても、このガソリンから抽出される芳香族炭化水素ベンゼンである。ジェット燃料のケロシンなどは炭素が直鎖上に繋がっており、六角形のベンゼン環は含まれない。すると青山氏は近くの自衛隊部隊が所有していた火炎放射器のようなものが考えられるという。本来なら機体から見つかる筈の何かの証拠を隠滅する目的で使われたのだと。それは飛行機の遺物の場合だが、遺体の状況からも、ナパーム弾で焼かれた遺体に酷似しているとある。遺体はまずジェット燃料から、次に火炎放射器などによる「二度焼き」が生じたと、医師たちもそれを裏付けているそうだ。

すると真相は一体どうなるのか。青山氏はその事故の2日前、防衛庁は最先端地対空ミサイルの誘導飛行を実施し成功したと発表した。それは低空で山腹を縫うように飛ぶ。

それと同じようなものを、実際村民やその子どもたちが目撃したそうだ。赤またはオレンジ色を後ろに尾を引く飛行物体を(それは無人標的機らしい)。

おそらくそれはミサイルシステムに組み込まれた無人標的機であり、誤ってジャンボ機の垂直尾翼を吹き飛ばし、墜落に至らせたとの推測である。だから徹底して証拠隠滅を図らなければならなかった。

私はこれを読了して真相の一部を垣間見た。今後の青山氏の究明に期待を寄せる。しかしあまりに多く符合すると、まさかという人も同じように現れ、著者を攻撃する。

けれども真実は人には隠されても、神は上から全て見てご存じである。それを抹殺する者は、最後には神が裁く。

 

神が言われる王の権利

【主】はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、【主】のすべてのことばを話した。彼は言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、【主】はあなたがたに答えはしない。」(サムエル第一8:7~18)
少し長くなったが、旧約聖書のこの個所は、これまでの神政政治から、民の反逆により王政に移行する段階で、主なる神が言われた事である。

イスラエルの民は自分たちのために(王)を選んだとある。そこで神は彼らの為すままにされた。しかしそこで王の権利を規定されたのである。内容は多岐にわたるが、最後の部分で「あなたがた自身は王の奴隷となる」と明言された。

この「奴隷」という訳については以前触れたことがある。ヘブル語エーヴェッドは英語でslave,servantとある。これを読むと、民が待望した「王」は、民の為、民の益の為ではなく、「廷臣や家来たち」つまり身内の者たちの為であった。だからその他の平民は王の奴隷とかしもべになる。

それから時代が経過したが、聖書の基本は変わりがない。常に真理である神を捨てたわけだから、民が選んだ王は不義に満ちている

ネットで民主主義を一瞥すると、「民主主義とは、国民が主権(国家を治める権力)を持ち自分達のために政治を行うこと」とあった。日本では選挙で長を選び、彼らに政治を任せるという、間接民主主義体制である。しかし「自分達のために政治を行う」という定義は、もはや死語となっている。だから日本国民はそうなっていない事を嘆き怒る。

けれども聖書を知っていれば、たとえどんなにひどい政治が行われようと、平常心でいられる。やるべき事は王が善政を行うようにとの祈りである。

現首相が神の警告された通りに事を行っているのは事実だ。これでもか、これでもかと言わんばかりに「罪=不法」を横行させている。

しかし神は生きていて、天からじっと動向を見ておられる。詩篇作者は「私が呼ぶとき答えてください。私の義なる神。追いつめられたときあなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ私の祈りを聞いてください」(詩篇4:1)と祈った。ここで神の属性は義である。生きて働いている義なる神が、いつまでも「不義」を看過、放置しておくわけはない。

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する』主はそう言われます」(ローマ12:19)。終わりの日に全てを正し、不義を繰り返す者たちに復讐される神に全てを委ね、そこに希望を置く。