まだ最高裁が
「主は彼らの不義をその身に返し彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神【主】が彼らを滅ぼされます」(詩94:23)。
酩酊様歩行が進んで何事もテキパキ出来なくなっている。ブログの更新も遅れがちだ。
そんな中10月1日の朝日新聞は原発集団訴訟の二審判決が仙台高裁であった事を伝えていた。相馬に住むブログ友だちが9月30日に注目するよう促してくれたので、それを銘記していた。
高裁の判決の重要な点は、東電のみならず国の責任を明確に認めた点である。「不誠実ともいえる東電の報告を唯々諾々と受け入れ、規制当局に期待される役割を果たさなかった」とあった。なかなか名調子の文章だと思う。裁判官は机上の空論ばかりと思っていたが、今度の高裁裁判官は原告から聞いていた事を実際に見て実情を確信したようだ。「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです』」(ヨハネ20:29)。
勿論原告団は喜びに包まれた。一方で国も東電も判決内容を精査し、対応を検討してゆくといった、共通した無味乾燥な言葉の羅列で終わり、1日の朝日報道を見る限りでは、謝罪の言葉は見つからなかった。
この対応を忖度すると、国も東電も「まだ最高裁がある、最高裁があるんだ!」と、昔の映画の絶叫調ではなく、不義を心の奥底に秘め、冷めた感覚でつぶやいたに違いない。
私はと言えば、国道6号を北上し、原発被害で惨状の西側を幾度か見て来た。9年半経過したところで、ほぼ変わりはない。賠償をめぐる住民同士のいがみ合いも、福島に引っ越して来た4年半前までは、かろうじてその声を拾う事があった。現在はほとんど聞かれない。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)とある教会の前向きな姿勢を除くと、どこを歩いても分断のまま、復興公営住宅で隣人同士和やかな語り合いのシーンなど見た事がない。皆孤立しひっそりと暮らしている。
東の海側は国の息のかかったイノベーション・コーストだ。エリートの集団だから、被災者に対しては箸にも棒にもかからない対応をする。先日のブログで触れた東日本大震災・原子力災害伝承館は9月20日オープンしたが、そのパンフの裏に語り部講話というのがある。
それがやはり9月23日の朝日新聞で論じられていた。語り部は実際の被災者だが、彼らは加害者である東電や、国を批判的に語る事は出来ないようになっている。伝承館側はそれを「公的な施設で行うことはふさわしくないと考えている」と一蹴する。だから上の画像の中にある「複合災害を経験した方々の生の声を聞き、当時の追体験ができます」とは白々しい嘘だ。この嘘を聞く為の入場料は600円もする。岩手県の東日本大震災津波伝承館は無料との朝日の指摘があった。
結局私には神である主に、不義を行う者を滅ぼして下さいとの祈りがあるだけだ。この全知全能の神を得ていない人なら、怒りと絶望で自滅するかもしれない。最高裁でそんな光景が見られなければ幸いだが。