ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

他人を肯定的に評価しようとする傾向のある人は、自分自身の明るい個人的特性の重要な証となります。

 サイエンス・デイリー8月2日のサイトには、「研究によると、あなたが他人について言う事は、あなた自身を雄弁に語る事が示されます」といった題の論文がありました(http://www.sciencedaily.com/releases/2010/08/100802165441.htm)。
これは米国ノースカロライナ州のウェイク・フォレスト大学心理学の研究チームによってなされました。他人を肯定的に見ている人、否定的に見ている人が選ばれて研究が進められました。
 それによりますと、あなたが他人をいかに肯定的に見ているかという点が、あなた自身の幸福度、親切さ、情緒的な安定さと繋がっているという事になります。つまり他人を肯定的な言葉で言い表そうとする傾向は、その人自身の積極的な性格特性を表わす重要な指標となるのです。他人を肯定的に言い表す事の出来る人は、自分自身にも肯定的で、他人からも肯定的な評価を受けるのです。そういう人々は他人から好かれます。
 これに対して、他人を否定的に見ている人は、かなり鬱的な傾向があり、様々な人格障害があるという事が示されます。かなり自己陶酔的で、相当反社会的な振る舞いをします。ですからそのような人は自分を不幸で不親切と思い、情緒的な不安定さを抱えている事になります。
 それは今の日本ではセクハラ、パワハラを頻繁に行なっている会社の上司などによく見られます。
 でも良く考えて見ますと、その研究成果は案外常識的なものであるようです。そこまで研究しないでも、聖書の背景がある国なら容易に到達出来るものではないかと思ってしまいます。
 主なる神イエス・キリストは有名な山上の説教でこう言われました。
 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:1−5)。
 ここで他人の目のちりとは、他人の中にある気になってしょうがない小さな欠点と言えるでしょう。それに対して自分の目の梁とは、自分の中にある大きな欠点と言えるでしょう。聖書の注解者であるバークレーという人は、こう述べています。「われわれには、自分が矯正すべき欠点が多いので、他人の欠点を探し出して正すほどの暇はないはずである。われわれは、自分の欠点を改めるのに専念して、他人の欠点は神にまかせておくべきである」。な〜るほど。
 しかしこの説教は一般の未信仰者ではなく、キリストの弟子たちに対してなされたものです。ですから信徒は懸命に祈り、主に委ねればそれが実行出来るでしょう。でも未信徒の場合は不可能なのです。なぜならその人は自分の心の中にある罪の問題が解決出来ていませんし、その邪悪な性格を神に変えて頂く事も出来ないからです。そうした人は一生他人を否定的に評価し、ずっと他人から嫌われます。
 でももしこのキリストの説教を見て、心砕かれ、自分の心の梁を取り除いて頂く為にキリストに委ねて祈るなら、あなたの性格は全く変えられます!周囲の人々はびっくり仰天、天地がひっくり返るほどの驚き方をするでしょう。その人々もなぜ?と考えるようになればしめたものです。