ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

哲学者森岡正博氏の考える孤独と聖書の孤独

 2011年10月31日の朝日新聞「こころ」の欄では、「生きるレッスン」との題で哲学者の森岡正博氏が担当し、月一回くらいのペースで語っています。
 私は特に森岡氏の思想に反対ではないので、いつも読んでおり、このブログでも感想を述べています。ただ哲学と神学の違いは大いにあります。ましてレッスン(=授業)と称している限り、私としては聖書に基づく違う角度から孤独を考察します。
 今回の主題は「孤独を楽しむ」でした。
 森岡氏はまず人がひとりでぽつんとしている時、寂しいという感情が生じ、その表現形として「孤独」という言葉を使うと言っています。
 次にこの孤独の本質を解き明かします。「私は他人からどうしようもなく切り離されて存在しているから、私と他人とのあいだの深淵は決して埋めることができない」という点で、人生での「存在の孤独」を述べています。
 ではその孤独が解消されない為、人は絶望的になってしまうのでしょうか?いやそうではないと森岡氏は言います。なぜなら「孤独を生きるのは、また幸せなことでもあるからです」。
 例えば夕焼けの美しさにふと見とれる瞬間、小学校から流れて来る懐かしい童謡のような音楽に聴き入る時、赤の他人から思わぬ優しい言葉をかけてもらった時、「宇宙でひとりだけ存在するこの孤独な私に向かって開かれた、たとえようもなく美しい宝石箱のようなものとして」感じられるから、幸せなのだという事です。言い換えると「私に向かってときおり発せられる世界の美しい声や優しさを…このうえもなく尊いものとして感受することができ」るから、自分は幸せなのだと。それゆえ孤独は決して絶望ではないと「思うのです」と、森岡氏は締めくくっています。
 自然や他人からの呼びかけがあるからこそ、孤独な人は幸福だと「思う」、曖昧な表現です。断定的でないのは、そんな感性も潰されてしまい、極めて絶望的になっている人々が世にゴマンといるからでしょう。
 私はこの森岡氏の考察の中にパスカルの臭いを嗅いだので、まずパンセ693から纏めてみましょう。この宇宙の一隅にひとり置き去りにされている人間(存在の孤独)は、どうしてそこに置かれたのか、何をする為そこに置かれたのか、死んだらどうなるのかも知らないので、恐怖にかられてしまいます。そして「かくも悲惨な状態にある人がどうして絶望に陥らないかを、私はあやしむ」と、パスカルは述べています。その通りです。その深い絶望の中で恒常的な幸せを感じる事がどうして出来るでしょうか。
 もう一箇所だけ引用します。パンセ546です。これは私の宣べ伝える福音と大いに関連しています。
 「イエス・キリストなしには、人間は悪徳と悲惨のうちにいるほかはない。イエス・キリストとともにおれば、人間は悪徳と悲惨からまぬかれる。彼の内に、われわれのすべての徳とすべての幸福とがある。彼の外には、悪徳、悲惨、誤り、暗黒、死、絶望があるだけである」。
 聖書にはこの世に生を受けた人間がなぜそこに居るのか、何の目的があって存在しているのか、死んだらどうなるかといった事を、極めて明快に述べています。即ち神は「わたしの栄光のために、わたしがこれ(*人間)を創造し」(イザヤ43:7)、ご自身との「交わり」(ヨハネ第一1:6)を望んでおられました。人間はその為に世界の一角を占めています。ゆえに神と共にある人間は決して孤独ではありませんでした。人のかたちをとって世に現れ、十字架が近づいた時のキリストも「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」のです。対象は勿論父なる神です。ですからキリストはいつも父なる神との交わりを持っており、苦難と孤独の中でも幸せでした。それはキリストに従う聖徒たちも同じです。
 しかし最初の人間の堕落により、預言者イザヤが「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにした」(イザヤ59:2)と述べているように、罪を犯してから神と人間との正しい関係が断たれ、人間は孤独になりました。
 そして罪人はその犯した罪の報いとして死に定められました。「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)。死んだ人間の魂は「ハデス」(ルカ16:23)に捨て置かれ、最終的には「第二の死」(黙示20:14)と呼ばれる、神との永遠の別離の場に投げ込まれます。
 しかし神はこの悲惨で絶望的な人間の為にこそ、救い主イエス・キリストを遣わして下さいました。それは仲介者であるキリストを通し、神と人間との和解が可能になる為です。それだけでなく人間は永遠のいのちの賜物まで頂くのです。「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:15)。パスカルの言う「すべての幸福」はまさに信仰者の心のうちにあります。ですから神の御前にへりくだった人間は「幸いです」(マタイ5:3」とキリストは宣言されました。
 それゆえ森岡氏の言葉の中にある「深淵」は、むしろ哲学と神学との間にあるのです。私と他人との間ではなく、神と人との間に存在する問題なのです。