ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

突然の死の宣告と受容

 徳永進先生の『死の文化を豊かに』を読んでいて、一つの箇所が印象に残りました。
 二十八歳で胃がんの末期という青年と徳永先生の宣告の場面です。今でも多くの医者が、死を間近にした人に対してその宣告をするというのは、苦手だと思っているでしょう。特定の宗教を持っていない人ですと、若いほど自分はいつまでも死なないと思っていますから、突然の死の宣告に対してあわてふためいてしまうからです。宣告した医者だって、早くその場を逃れたいという気持ちになるでしょう。
 しかし徳永先生はこれまで多くの人生末期症状の患者さんと付き合い、大勢の人の死を見届けて来た経験豊富な人です。
 死の準備も出来ていない人への宣告も、その人の性格などを見極めた上で、塩味の効いた言葉で語っていると思います。
 上記の青年の場合ですが、勤め先の大阪から徳永先生のいる鳥取の故郷に戻り、先生の外来診察を受けました。既に手の施しようがありませんでした。
 青年は大阪に婚約者がいます。未告知のまま先生は一端大阪に帰るよう勧めました。ところが大阪の病院では、どこに行っても進行性の病気でという事で治療を断られ、故郷の父親に電話して来たそうです。その父親と徳永先生は面識があったようで、すぐ入院を依頼しました。しかし病気の事を知らない息子に、父親としてがん末期だとどうしても言う事が出来ません。そこで徳永先生に告知をお願いしました。既に親同士では内密に婚約を解消していました。
 そこで徳永先生の出番ですが、ある日大山(だいせん)の見える病院の廊下に椅子を2つ並べ、先生が話を切り出しました。
 「あの、悪いけど、君、死ぬ」。何と直截的な言い方ではありませんか!青年の事もありますが、ここまで踏み込んだ徳永先生も凄い!
 勿論青年は衝撃を受けました。「えっ、うそでしょ。癌ですか?」。以下2人の対話です。「いや、病名はまだはっきりとは。でも死ぬ」「三年後ですか、五年後、十年後ですか」「ううん、もっと、もっと手前」「ウソでしょ。ほんとですか」「ほんと。でもね、なぜそんなことを言ったかってね。君の一番大切な人に、あなたが一番大切な人だった、って言って欲しいし…」「ウソでしょ、先生。ほんとうですか」「ほんと」。
 そして数日後その婚約者だった美人の女性がやって来ました。三日間思い切りデートの時を過ごし、女性は帰って行きました。
 面会ロビーで一人ポツンとしているところで、徳永先生は青年に声をかけました。青年ははっきり助言通りの事を実行していました。それに対して先生。「すごいじゃん。やるじゃん。キミー」。青年。「やめて下さいよ。先生。二人とも、涙、涙、涙、涙のシネマの世界ですよ」。
 一ヵ月後死を受容した青年は他界して行きました。
 実は同じような話が旧約聖書にあります。
 「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。『主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」』」(列王第二20:1)。
 突然の宣告にヒゼキヤは大声で泣きました。それに対して主なる神は、ヒゼキヤの涙を見、祈りを聞かれました。そして特別にもう15年の寿命を与えられました。
 それは聖書では例外的な事でした。しかし私たちキリスト教信徒はまず死を思う事から出発します。なぜなら主イエス・キリストの弟子として主に倣う者だからです。その主の地上での最大の御職務こそ、私たちの罪を負って十字架で死なれる事だったからです。
 でも主は甦り、こう言われました。「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」(黙示1:18)。ハデスとは黄泉のようなところと思って下さい。このかぎを握っておられる方に委ねさえすれば、あなたは賜物として永遠のいのちを頂けます。