ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

田沼靖一著『ヒトはどうして死ぬのか』を読む

 田沼靖一氏の上記の本を読みました。『ヒトはどうして老いるのか』を読んでから8年ぶりになります。前著で初めて「ネクローシス」とか「アポトーシス」といった言葉を知りました。
 今回田沼氏は最初の部分で「アポトーシス」という言葉の語源を教示してくれました。ネットを見ても分かる通り、現在この言葉としては別に「アポプトーシス」という言い方もあり混乱していましたから、説明部分を読んでなるほどと納得した次第です。つまり名付け親のJ・F・カー氏は、ギリシャ語のアポ(=離れる)とプトーシス(=落ちる)を合成して、英語表現ではapoptosis、つまりアポプトーシスと発音すべきところを、2番目のpを読まず、tにアクセントをつけるよう注文した為、「アポトーシス」となったわけです。カー氏の意向を尊重するなら、今後検索は「アポトーシス」で統一すべきではないでしょうか。
 それはとにかく、次に田沼氏は「ネクローシス」と「アポトーシス」の違いを説明しています。
 「ネクローシス」という現象は、「打撲や火傷といった外部からの刺激、心筋梗塞などで見られる強い虚血などがもとで起こる“事故死”です…まず細胞膜が崩れ…外部から水分が入り込んで、細胞自身が膨らみます…その後…細胞が溶けると、中身が細胞外に流れ出すのです」とあります。そこで細胞は崩壊し死を迎えます。
 一方「アポトーシス」では、細胞は内外から様々な情報を得て“自死装置”を発動します。すると細胞は自ら収縮し、核の中のDNAを規則的に切断し、ぶどうのような小さな粒に断片化してゆきます。それらは免疫細胞に「貪食されたり」、周囲の細胞に取り込まれ、「身体の中からきれいに消去されます」。私たちはそれを顕微鏡で見る事が出来ませんが、美しい死に方をするそうです。
 田沼氏はこうした細胞の死に対する研究では、先駆者の一人でしょう。残念ながらこの本の後半を見れば分かる通り、氏は「進化論者」です。ですからその部分の紹介は省きますが、中間部分ではこのアポトーシスを応用した新薬の開発に挑戦しています。現状ではなかなか難しそうです。
 田沼氏はこの二つにさらにもう一つ「アポビオーシス」という言葉も付け加えています。それは非再生系細胞の死であり、寿命が尽きる事を表していますから、日本語で「寿死」という言葉も使われます。再生系の細胞では、分裂、増殖、アポトーシスが繰り返されますが、その回数に制限があり、人間の場合50〜60回だそうです。一方非再生系の細胞におけるアポビオーシスでは、耐用時間の上限を迎えての死ですから、前者は「回数券」、後者は「定期券」のようなものだと、田沼氏は譬えています。うまい表現だなと思いました。
 聖書から考えて見ますと、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:15)とある如く、人間の心に潜む諸々の醜悪なものが膨らんで罪の形をなし、外部に流出して醜悪な死を迎えるという点では、「ネクローシス」によく似ています。
 一方救われてもこの世に肉体を持っている限り、罪からの完全な自浄作用はあり得ませんが、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ第一1:9)とある通り、上からの指令をもって罪を死んだものとして心のうちをきれいにして下さる神がおられます。その方が定められた「アポビオーシス」の時、罪を消去して天に召して下さるという点では、それは「アポトーシス」によく似ています。
 田沼氏の本の前半の分かりやすい説明から、聖書に対比させて考えて見ました。