ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

戸塚洋二氏の暴飲・ガン死・マザー・テレサ

 小柴昌俊氏が岐阜県神岡鉱山の地下の大規模な装置(カミオカンデ)で「宇宙ニュートリノ」を捉えて、ノーベル賞を受賞したのは記憶に新しいところですが、その弟子であった戸塚洋二氏は、新たに作られたスーパーカミオカンデで、ニュートリノに質量がある事を発見し、小柴氏に次ぐノーベル賞候補と噂されていた人です。
 戸塚氏は東大を出てからドイツに留学していた時、相当なストレスが溜まり、強いウイスキーを水で割らずにグイグイ飲んだ為、既に身体に損傷を与えていたようです(200年大腸がん手術)。帰国後すぐ取り組んだスーパーカミオカンデでの研究途中、2001年大規模な破損事故が生じて、その復旧に尽力していた時も、本来強くないウイスキーを浴びるほど飲んでいたそうです。その結果がんは病巣を広げ、様々な臓器に転移し、2008年に亡くなりました。仕事第一で、治療を後回しした為、取り返しのつかない事態に陥ってしまい、結果的に死を早めました。
 その戸塚氏がブログで綴った闘病記を評論家の立花隆が纏め、出たのが『がんと闘った科学者の記録』です。死と共に閉じられた記録ですが、ネット上でまだ閲覧出来ます。http://fewmonths.exblog.jp/
 この記録で戸塚氏は「私は骨の髄まで無神論者です」と言っています。だから「自分のいのちが消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく。自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく…ということに気づき、慄然とする…死が恐ろしいことに変わりがありません…布団の中に入って眠りに就く前、突如その恐ろしさが身にしみてきて、思わず起き上がることがあります」と言っています。それで「気を紛らわすことを見つけて時間をつぶす」ようにして死を迎える事になりました。パスカルの『パンセ』にも同じ事が書かれています。
 しかし戸塚氏はこの記録の中でしばしば仏教やキリスト教といった宗教に触れ、立花氏に勧められてニーチェのような哲学者の著作も読んでいます。
 とりわけ頻繁に出て来るのが、カトリックマザー・テレサの事です。2007年にCNNニュースでその記事を見つけ(今は削除で閲覧不可能)、その後ざんげ聴聞司祭たちとの往復書簡が本となって出たのを契機に、彼女の生き方に特別な興味を示しています。
 それは何か?彼女は40年以上もインドで貧者や病人救済の為に献身的に尽くし、ノーベル賞までもらった有名な人です。ところが彼女はその間、何と「神がそばにいない」という懐疑の念を持ち続けていたというのです。神が実在しなければ、キリストも実在しないという考え方が、生涯ずっと纏わりついていたそうです。
 その信仰の原点は「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である」(マタイ27:46)というみことばにあったそうです。
 ですから戸塚氏は「聖者とまでたたえられた人物の精神にこのような葛藤があったとは、無神論者の私にとっても大変意外でした」と、少なからぬショックを受けています。
 それで戸塚氏は「私にはキリストの最後の言葉『おお神よ、なぜあなたは私を見捨て給うのか』の意味が依然として謎のままです。いつかキリスト教の本を読んでみたいと思います」と書いていますが、それは実現しませんでした。「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ローマ10:14)とある通りです。

 このマタイ27:46の真意ですが、極めて大切です。地上での生涯の間キリストは父なる神との霊的な交わりを絶えず持ち、祈りを捧げて来ました。呼びかけは「父よ」で始まります。ところがこの十字架のみことばでは、「わが神」となっています。その神がご自分を見捨てられるとはどういう事でしょうか?それにはキリストが全世界の「罪」を負って十字架にかかられた事を銘記しなければなりません。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:2)とある如く、父なる神は私たちの罪が解決しない限り、「絶交」状態です。そしてその結果が「死」です。そこでキリストが身代わりとなり、十字架で全ての人の罪を負われました。ですからその死の瞬間、キリストも父なる神との交わりが絶たれたのです。それでキリストは「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたわけです。でもその一度だけの死で、罪の問題が全て解決されました。罪は罰せられ、神は満足されました。ですからキリストを信じる人は罪を赦されます。勿論このキリストは神の御力で復活し、今天にあって「いつまでも生きて」(黙示1:18)おられます。だから信じる人は世で肉体が滅んでも、天国で永遠に生きるのです。そしてキリストは遍在な神ですから、信じる人々のそばに、またその内におられます!
 マザー・テレサはこの十字架のみことばを良く理解していなかったと考えられます。ですからその証は、戸塚氏のつまずきとなりました。