ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

キリシタン大名小西行長の死、埋葬と聖書のサウル王の場合

 2011年1月13日の朝日新聞は、キリシタン大名小西行長の人物像の見直しが進んでいる事を報じていました。
 彼は豊臣秀吉の家臣でキリシタン大名でした。秀吉の朝鮮出兵の時、加藤清正と共に加わりました。
 キリシタンという事ではある程度布教活動も行なったのですが、秀吉は1587年にキリシタン禁教令を出していたので、「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」(コリント第二6:15)とある如く、彼としても二人の主人に仕える事は不可能だったと思われます。従って朝日の記事にもあるように、彼は「どこまでも秀吉に忠実な人生」を歩んだというのが実際のところでしょう。
 関が原の合戦は彼の主人である秀吉が死んだ後、2年経過してから起こりました。それには石田三成率いる西軍の将として参戦しました。そして徳川家康率いる東軍に破れ、三成らと共に斬首されました。
 ウイキペディアの記事によると、「処刑後、首は徳川方によって三条大橋に晒された。死に臨んで告悔の秘蹟を同じキリシタンであった黒田長政に依頼したが家康の命もあって断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが接近できず受けることができなかった。遺体は改めて秘蹟を受けた上で絹の衣で包まれ、カトリックの方式で葬られた。教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだと言われる」とあります。
 この記事を見てどうしても類似例として思い出されるのが、イスラエル初代の王サウルです。
 彼は二代目の王となるダビデとの間に長い戦いがありました。しかしダビデは神である主に従い、戦いで勝利するチャンスもあったのに、彼を殺すような事はありませんでした。最終的にサウルはダビデと和解する形で戦いを止めました。
 でももう一つ、ペリシテ人との戦いが残っていました。そこで両者の間で合戦が始まり、サウルは敗走する途中ギルボア山で弓の射手たちの集中攻撃を浴びて致命傷を負いました。結局彼は死にましたが、やって来たペリシテ人は彼の死体を発見し、その「首を切り、その武具をはぎ取った」(サムエル第一31:9)のでした。しかも彼らは「彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした」(同31:10)のです。
 その後は小西行長のように、サウル軍の勇士たちが決死の覚悟で彼の遺体を奪取し、ヤベシュに運んで焼きました。「それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した」(同31:13)。サウルは最終的には丁重に葬られたわけです。
 小西行長の記事から聖書のサウルに迫って見ました。