ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

自制心は攻撃性を増すのか

 3月21日のサイエンティフィックアメリカン誌電子版に「自己抑制はむしろ攻撃性をもたらす」といった題の小論が載っていました。元の論文は米国消費者行動誌の電子版にあるようですが、有料サイトで私はその要約しか見る事が出来ませんでした。
 ところで消費者行動誌では、自制心(=self−control)という言葉が使われていますが、サイエンティフィックアメリカン誌では自己抑制(=self−constraint)、さらに自己否定(=self−denial)といった同義語が採択されており、それぞれ多少ニュアンスが異なるので、元の論文の自制心を使う事にします。
 自制を日本語の辞書で調べると、「自分で自分の感情や欲望を抑えること」(新明解国語辞典)とあります。自粛・自重なども同じ意味で使われます。
 この論文の特異なところは、そうした自制が控え目とか慎ましやかといった、対人的にはプラスとなりそうな感情でありそうなのに、むしろ広範囲な攻撃性をもたらすといった調査結果にあります。
 過去の研究では自制も度を越えると、苛立ちや怒りの感情をもたらすという程度でした。しかし今回の研究ではそれがもっと広範な影響力を持つ事が示されたようです。
 例えば肥満を防ぐ為熱心に食事療法を取り入れ自制している人は、警察訓練の為の財源が増えないと、監獄から逃亡する犯罪者がさらに多くなるかも知れないといった公共広告を好みました。またカロリーの高いチョコレートを控えリンゴを選んだ人は、規制のように思える「〜すべきだ」「〜する必要がある」といった宣伝文句に対して余計に苛立ちました。さらに自制に熱心な人は、他に幾つも選択肢があるのに、わざわざ敵愾心をテーマにした映画を選ぶそうです。
 これらは自制という言葉が持っている良い感情を否定し、かえって悪い感情、攻撃的な感情を心に広げてしまった例です。
 世の中の未信仰者の自制心とは、まさにそのように悪意を含んだものとなります。それは彼らが罪深いからです。
 しかし聖書で勧められている自制心は違います。
 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」(ガラテヤ5:22−23)とあるように、自制は新しく生まれ変わった人(信徒)の心に、神の第三位格である聖霊が実を結ばせて下さるものです。そのような人は攻撃心どころか、柔和な主イエス・キリストの栄光をいつも追い求め、天国で栄冠を得ようと、さらにその資質の発展に努めます。
 「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(コリント第一9:25)。