ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

奥村土牛の絵画「醍醐」を鑑賞する

 5月18日の朝日新聞夕刊は「醍醐」と名付けられた奥村土牛(とぎゅう)の絵画をカラーで載せていました。山種美術館所蔵のものです。
 奥村は1889年生まれ、1990年に死亡された方ですから、101歳と長生きでした。私は知りませんでしたが、ウイキペディアによると「現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本画家の一人」とあります。尋常小学校を出てある絵画塾に弟子として入り、30代でめきめき頭角を現して来ます。
 「富士宮の富士」という作品が最も有名だそうですが、朝日に載ったのは1972年創作の「醍醐」です。

 これを見ますと、朝日の解説にもあるように、幹が主役に見えます。この木は枝垂桜なのですが、普通ならその花のきらびやかさを協調するところです。でもこの絵画の場合、あくまで「幹」が主役のように見えます。新明解国語辞典によると、幹とは「木の、根から上の方に伸びて枝・葉を出す太い部分」とあります。また転じて「物事の大事な部分」とも定義されています。
 「醍醐」は奥村が師事していた小林古径の七回忌で京都を訪れた時醍醐寺に寄り、見事な枝垂桜に魅せられ、およそ10年をかけて創作したそうです。余談ですが、ブラームスがその交響曲第一番を作曲するのに、およそ40年の年月をかけたと言われていますから、それには及ばないとしても、10年の長さは凄く、奥村の傾注ぶりが偲ばれます。
 なぜ幹が主役なのでしょうか。それは亡き師匠の姿を重ねたと解説されていますが、同時にその幹の力強さは奥村自身にも通じる生き方を描いたのではないかと推測されています。書き終えたのが83歳の時との事ですから、東京美術学校の講師をしていた戦争の激しかった頃、あの東京大空襲で家を焼かれた50歳後半の過酷な体験を生き抜いて来た人生経験も反映されていると見るべきなのでしょう。
 ところでこの幹が主役で、枝や葉は脇役という構図、聖書のヨハネ伝にもあります。
 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)と、主イエスは言われました。
 そのように師匠である救い主イエス・キリストが木(幹)であり、その弟子たちは枝なのです。この関係は逆転出来ません。
 そしてその師匠に繋がらない限り、人間の人生は脆弱です。太くがっしりした木=幹に繋がってこそ、人は揺ぎ無い人生を送る事が出来ます。