ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

高橋哲哉著『犠牲のシステム 福島・沖縄』を読んで

 はてなのブログでは上記の本を推奨する方々が多くいて、私も図書館で借りて読みました。『靖国問題』以来です。極めて平易で分かりやすいです。
 高橋教授は福島県生まれ、第二原発のある富岡町で小学校を過ごした経験のある人でした。とりわけ福島に対する愛着のある人ですが、大学(東大)入学以来東京圏で過ごし、「原発事故のリスクを故郷福島に担わせ、そこから送られてくる電力の利益だけを享受してきた」という事実に大きな戸惑いを感じました。この事故によって「罪責意識」のようなものも感じ、どう捉えるべきかで苦しんで来ました。それは最初から東京圏に住んでいる私も同じです。

 ではまず福島における犠牲のシステムとはどういう事でしょうか?
 高橋教授は「スケープゴート=犠牲の山羊」という言葉を用いています。これは旧約聖書レビ記に出て来ます。
 「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」(レビ16:21−22)。
 この生きているやぎはヘブル語でアザゼルと呼ばれ、それが「スケープゴート」です。それを百科事典で調べると、「他のものの責任の身代りとして,社会から迫害,圧迫される個人や社会層を指す」とあります。
 ですから福島における犠牲の山羊を考えると、他のものとは「原子力ムラ」の人々(政治家、官僚、電力会社、学者、それに都市部の人間)、社会から迫害、圧迫される個人や社会層は、「被爆労働者」「被爆県民」となります。実際福島の被爆者は社会から「差別」され、迫害・圧迫を受けており、現在も目に見えない形で進行しているでしょう。
 この原発の犠牲のシステムの一つを構成するのが、原子力委員会による立地基準です。
1「原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」
2「原子炉からのある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること」
3原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること」
 故に東京首都圏はそれらに該当しません。そこで東京圏の人々は犠牲を「被爆労働者」「被爆県民」に負わせ、「不毛の地」に移動させ、自分たちは一切の責任をとらない構造を作り上げています。
 とりわけ「被爆労働者」は、ほどなくがん死に追いやられるでしょう。実は犠牲の山羊は2匹居て、その一匹が主に即捧げられました。同様に今も放射線量の限界を大幅に超えて作業している人々が多くいますが、彼らはスケープゴート(=生きているやぎ)ではなく、犠牲死するやぎとなるはずです。しかし政府や東電などは、彼らの事を全く考慮しませんから、ずさんな管理体制を敷いている事が次々と明るみに出ています。東電は明らかに犯罪者です。
 次は沖縄です。「日米安保体制」というのが犠牲のシステムです。「1945年の敗戦に際して、沖縄が『国体護持』の捨て石にされた」という事です。<*第二の敗戦の捨て石=福島>。
 ここで「他のもの」は勿論「日米両政府」であり、彼らから迫害,圧迫される個人や社会層が「沖縄住民」です。ヤマトンチュウがウチナンチュウを差別し、犠牲にしています。
 このヤマトンチュウの中枢と戦ったのが、安保闘争における学生、労働者、べ兵連などの知識人ら、それに沖縄の人々でした。私も加わりましたが、残念ながら圧倒的な政府の権力の前に押し潰され、挫折してしまいました。
 この本の後半で高橋教授は福島の犠牲は「天災」か「天罰」か、という事について、かなりページを割いています。これについては別の機会に改めて論じるつもりです。
 とにかく高橋教授のこの本、私たちとりわけ福島・沖縄に犠牲を強いている者たちには必読のものと確信します。そして読んだ後「スケープゴート」の上に胡坐をかいているなら、その人は正常な精神の持ち主ではないでしょう。