ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

安富渉著『もう「東大話法」にはだまされない』を読んで

 図書館で上記の本を借りて読みました。安富氏の第二作になります。
 今回安富氏が一歩進めたのは「立場論」です。前回東大話法規則で安富教授は、そのトップに「自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」という事を採択しました。原子力の専門家が「我が国は」で話を始める時、その学者を「御用学者」と呼びますが、彼らは決して「私は」で切り出しません。そこで既に学者・研究者としての良心が麻痺して、傍観者の立場を採り、自己責任を追及するような事が回避されました。
 例えば東大の大橋弘忠教授は「原子炉事故の場合では水蒸気爆発は起こらないと考えられている」と述べましたが、「証明出来るのか」という質問に対して、東大話法規則三番目にある「都合の悪いことは無視し」を適用して、説明責任を果たさず、無視しています。東大話法とは責任逃れの話法の事です。
 彼らの一人一人は「欺瞞的話法で国民を騙す」という意識を持っていないのかも知れませんが、集団となると「すさまじい巨大な悪になる」のです。数学では微視的な立場をとるのが「微分」、その寄せ集めで結果がどうなるのかを巨視的に見るのが積分ですが、安富教授はそれを適用しています。大きな悪事では多くの人々が集まっている為(*積分)、その中の個人(*微分)は、悪事を働いているという考え方を持ち合わせていません。罪を犯したと言う意識が消えてしまいます。それを安富教授は「悪事の微分化」と呼んでいます。うまい表現です。「微分化された悪事に手を染める者には、全く罪の意識がありません」。

 「悪事の微分化」を利用して、傍観者のふりをして「東大話法」でウソをバラまいているのが「御用学者」です。そこには「私は」という主語がすっぽり抜けてしまいます。欧米のような聖書的背景の無い日本では典型的なものです。
写真左は山下俊一福島県立医科大学副学長
 ここに来て安富教授が持ち出しているのが「立場」という概念です。「私はその質問に答える立場にありません」「コメントする立場にありません」「自分の立場をわきまえろ」「私の立場も考えてくれ」…。「その人が置かれている地位や境遇から生じる考え方、観点、立脚点」が立場の定義の一つです。
 「御用学者は」「立場」を守るためにウソをつき、原子力ムラにぶらさがる仲間の「立場」を侵害しないよう、当たり障りのない発言しかできない」のです。
 それで原子力委員会の「立場」は「原発推進」ですから、「我々の仕事は原子力の推進であって、安全ではない」と、委員長代理は発言します。東電経営者は「まずすべきは事故の収束であって、進退については今コメントできるような時期ではありません」と言い訳します。
 私の責任がすっぽり抜けた「悪事の微分化」ですが、それを絶対見逃されないのが私たちの神です。
 「【主】の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている」(箴言15:3)。 
 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(へブル4:13)。