ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

東日本大震災から2年

 「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい」(申命4:9)。
 2011年3月11日午後2時46分に生じた東日本大震災、私は松戸市にある自宅マンションから僅か300メートル離れた道路で被災しました。工場のフェンスにしがみつき、地震のひどい揺れに耐えていましたが、工場のサイレンは鳴り、モノが落ちる音がし、工場の女性作業員さんたちが悲鳴を上げていました。私は自分の目でそれを目撃しました。
 すぐマンションに戻り、そこの理事兼防火管理者だったので、早速9階建ての建物の廊下をくまなく巡回し、配管などの破損の有無を調べ、また高齢者の方々を1階の集会室へ誘導しました。皆怯えており、説得して部屋に戻したのが午前1時30分、それからパソコンを起動し、流れて来るニュースに釘付けになっていました。
 13日の日曜に号外が出て、この震災が観測史上最大のものである事を知りました。また津波が多くの人々の命を奪って行った事も知りました。
 16日から29日まで、わりに近い所で発掘していた大学後輩に頼まれ、応援に出かけましたが、13〜15日の福島原発における一連の水素爆発による放射能プルームが、風向きの変化で東葛地域と呼ばれる流山、安孫子、柏、松戸各市を、21〜22日頃襲って来た事など夢にも知りませんでした。雨の時で発掘は中止でしたが、翌日から1週間ほど地表に付着した放射性物質にはもろに触れていた筈です。6月14〜16日に初めて行われた放射線量測定結果は、1時間あたり0.21〜0.39ミリシーベルトと高い値を示しました。しかし震災発生当時緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(=スピーディ)による、この地区への警告などの措置は全くなく、多くの未来ある若い人々がかなりの放射線を被ばくしてしまいました。

 茨城県鉾田市にいた時は、すぐ近くの東海村JCO臨界事故により、亡くなった大内さんらの悲惨な状況を新聞や本で知っていたので、放射能がいかに怖いものか、たとえ目に見えなくても実感していました。
 写真は被爆した大内さんの腕。
 それ以後毎日新聞やパソコンで情報を追いながら、東電という会社がいかに原発事故を隠ぺいし、過小評価し、私たち素人を見下しているか、つぶさに見て来たので、怒り心頭、それから猛然と原子力の事を勉強し始めた次第です。それにより原発というものがいかにシステムとして破綻しているかが分かり、もはや一刻の猶予もならず廃止にしなければならないという結論に達しました。
 その考え方は常識だと思ったのに、政府も財界も官僚も今や原発再稼働の大合唱です。いかに彼らの頭がアブノーマルかが理解出来ましたが、その一方で福島で被ばくした人々は、国を失ったユダヤ人のように悲惨な離散の憂き目に会っています。
 それなら自分の出来るところで反原発の声を上げ、しかもそれを忘れないよう叫び続けなければならないと決心しました。これからも執拗に追求してゆく事をここに誓うものです。