ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

なぜ自殺はいけないのですか?評論家の岡田斗司夫氏の答えと聖書の答え

 2013年3月6日の朝日新聞の「悩みのるつぼ」欄で、或る女性の「なぜ自殺はいけないのですか?」という質問に対して、評論家岡田斗司夫氏が回答していました。

 しかしその内容はあまりにお粗末としか言いようがありませんでした。
 氏は冒頭で「犠牲死」について触れています。それは「自分が犠牲になれば十〜百人程度の人が助かる、という確証があれば『じゃあ仕方ない。死ぬかぁ』とイヤイヤながら決心すると思います」という言葉に表れた死の事です。理由は「死ぬことによって逆に『命の尊さ』を訴えるからです」。これを氏はベストではないけれどもベターな回答だと言っています。
 一方氏が言及しているのは、上記女性の「自殺死」の事です。「この世の中に生きる意味や価値がない、ということを、私の命を投げ捨てることで証明してやろう」という主張だと言っています。
 それに対する氏の反論めいた事は、自殺されたら、生き残った側の人は「すっごく迷惑」だという事です。そこで気まずい気分、不安感、不快感が生じるからだそうです。だから自殺は、残された人全員にとっては「呪い」だと言っています。それ故社会は自殺を許してはいけない、許すと社会の基盤が狂ってしまう、日常までが呪われてしまうと結論付けています。
 しかしそれはあくまで氏の私的な見解です。私はかつて茨城の鉾田にいた時、隣に若い陶芸家が引越して来て親しい付き合いをしていました。しかし私はひどい足の神経痛(レストレスレッグ症候群)で動けなくなり、止むを得ず都市の病院に近い所に引越した後、東日本大震災に遭いました。早速その陶芸家に安否を尋ねたところ、バイクの事故で腎臓を一つ潰し、長らく入院して戻った日が3・11だったとの事でした。ろくろで制作したものが窯に入れる前で全て倒壊、落胆していたところに、これまでの体力が全く無くなったのを知り、悲観し自殺してしまいました。しかし私はそれをご両親から聞いた後、深い悲しみを経験したものの、すごい迷惑、呪いなどという感情はありませんでした。息子に先立たれた優しいお父様とお母様の為に祈りました。岡田氏の見解は俗に言う、死者に鞭打つもののような気がします。
 では聖書はどう言っているのかと言いますと、自殺に対する明確な教えの箇所はありません。しかし自殺した人の例は載っています。悲しみや失望が動機であるのは、この世の自殺者と同じです。
 でも聖書は人間の誕生を主の賜物としています。ですから誰もが主の目には尊い存在です。その目的はご自身の栄光を表わす為です。
 「見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である」(詩127:3)。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している…わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ43:4,7)。
 「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(コリント第一6:20)。
 しかし生まれながらの人間は神に背き、神から離れています。それは罪であり、限りなく自己中心です。自分のいのちは、時至って神がとるのではなく、自分で処理してしまおうと試みます。自殺は自分で自分のからだを殺す事ですが、十戒において禁じられています。
 「殺してはならない」(出エジプト20:13)。
 それゆえ或る人を自殺に追いやった人は、人と神により厳しく罰せられます。かけがえのない魂の為、人が罰する事が出来ずとも、神が復讐されます。いじめで自殺に追いやり、平然としている人はいつかこの恐るべき神の前に立ち、裁きを受ける事になります。
 「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」(創世9:6)。
 大切なのは自殺者を迷惑と責めるのではなく、生き残って辛い思いをしている家族や友人たちを慰め、或いは沈黙をもって寄り添い、平安を取り戻せるよう祈る事だと考えます。