ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

鈴木貫太郎記念館を訪問

 「わたしは…世を救うために来た」(ヨハネ12:47)。
 先日千葉県流山市に合流した新撰組の事を書いたら、ブログ仲間のiireiさんから、その先に鈴木貫太郎の生家がある事を教えて頂きました。そこで4月12日思い切って自転車で野田市関宿にある鈴木貫太郎記念館まで行って来ました。

 江戸川の土手の歩行者及びサイクリング専用道路をひたすら北に向かって走り、気が付いたら40キロ余り、5時間もかけて辿り付いたという感じでした。途中江戸川と利根川を結ぶ運河を見たり、野田の醤油製造工場を見たりして、ちょうどその二つの河川が分岐する場所に位置する関宿町に到着しました。場所はあらかじめネットで調べておいたのですぐ分かりました。

 こじんまりとした記念館で入口から入ると、「為萬世開太平」(終戦勅語<モッテ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ッス>=世の中がずっと平和で穏やかでありますように)という大きな白い記念碑が、一際目立ちます。

 その手前にある黒の記念碑は鈴木内閣書記官長だった迫水久常が書いたものです。館内は撮影禁止でした。鈴木の残した日記、手帳、トランプ、そして愛用していたソファなどが展示されてありました。
 鈴木貫太郎は1868年関宿藩士の長男として現在の大阪堺市(関宿藩の飛び地)に生まれ、3年後にその本籍のある現在の野田市関宿に移りました。前橋中学などを経て海軍兵学校に入り、卒業後さらに海軍大学まで進み、その後日露戦争などに従事してから海軍大将となりました。

 1924年昭和天皇の要請で侍従長に就任し、1936年の二・二六事件に遭遇しました。陸軍大尉・安藤輝三の統率する兵士たちが侍従長官邸に侵入し、兵士らが銃を撃ったのですが、幸い胸と頭部の傷は致命傷とはなりませんでした。安藤がとどめを刺そうとした時、鈴木の妻たかが「おまちください。老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と叫び、その勢いにひるんだ安藤は、すぐ兵士らを引き連れ、官邸を後にしました。それで鈴木は一時危篤状態になったものの、一命を取り止めました。これは大きな出来事でした。
 1945年辞職した小磯國昭内閣の後継として、昭和天皇の信頼厚かった鈴木が指名され、天皇の再三にわたる懇願で引き受け組閣しました。敗戦末期まだ東条など陸軍強硬派もいる中、ポツダム宣言受諾の方向に動き、遂に8月14日の御前会議で受諾が決定しました。翌日早朝陸軍の国粋主義者たちに又もや襲撃されましたが、間一髪難を逃れたそうです。
 かくて15日の昼終戦詔勅天皇から出され、長きにわたった戦争に終止符が打たれました。
 鈴木貫太郎がとった陸軍強硬派とのやり取りで、もし陸軍が主導権を執っていたとしたら、さらに戦争は続き、既に広島・長崎と原爆が投下されていたわけですから、次の目標でもあった東京に投下される可能性もありました。そうだったら日本は壊滅状態、私も生まれていなかった事になります。
 鈴木に対する後世の評価はいろいろあるにしても、とにかく日本を敗戦に導いた功績は語り継がれても良いのではないでしょうか。
 大役を終えて故郷関宿に戻った鈴木は、1948年敗戦から僅か3年後自邸で逝去しました。酪農の振興などで最後の時を過ごしたそうです。
 この記念館からほんの少し行ったところに、関宿城の跡も残っていましたが、長くなるのでここまで。