ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

敗戦後日本の平和到来

「悪を離れて善を行い平和を求めそれを追い続けよ」(詩34:14)。

ネットが開通してから、図書館のホームページにやっとアクセス出来るようになった。しかし室温30度の中、詳細検索をやめ借りた本を2冊返し、1冊延長したのが、このブログで記す田宮虎彦著『足摺岬 沖縄の手記から』である。

前者については、中学生の頃、父親の書斎から抜き出して読んだ事がある。しかし内容を忘れたので、もう一度と考えたわけだが、上記の本は『沖縄の手記から』が最初になっていて、家でも病院でも持参して読んだ。

この内容が実にリアルだった。読み進めてゆくうち、これは田宮氏が沖縄戦に学徒として参加していたから、凄惨な場面の克明な描写が出来たのだと思っていた。

実はそうではなかった。田宮氏は1911年生まれ、旧制三高から東大文学部を経て執筆活動に入った。略歴を見ても戦歴は無い。

足摺岬を出した1952年に私が生まれ育った東京杉並区の隣、吉祥寺に引っ越して来たとあるので、文学好きな父親の目に留まったのかもしれない。吉祥寺は歩いてもすぐだった。そこで父親に背負われ、傷痍軍人の姿を初めて見た。幼いにしても強烈な印象を残した。

『沖縄の手記から』は加筆されて、1972年新潮社から出版されている。同じ年に父親はくも膜下出血で亡くなったので、この本の出版は知らなかっただろう。

実はこれが名作で、ネットを調べてみると、国語の教科書にも採択された事があるそうだ。実在した金子軍医大尉の沖縄戦手記が元になっていて、田宮氏はそれを戦記文学として完成させたようだ。

金子大尉の所属する海軍航空隊は巌部隊と呼ばれ、沖縄に移ってからは那覇近郊で壕掘りを命じられる。冒頭はその描写から始まっている。慣れない応召兵が過酷なノルマを課され、次々と病気で倒れる。そんな状況を金子大尉は次のように描写する。

「不平や不満は一言も言うことの許されない軍隊という機構の中に、壕掘りの道具のように、応召兵たちは嵌めこまれていた‥もちろん、私自身も、兵隊たちも、それにさからうことも、避けることも出来なかった。そういうことを考えること自体が許されなかったし、考えてみることさえしなかった。仕掛けは大きすぎ、頑丈すぎて、運命として受けとめるほかなかったのである」。

この描写で思い出したのが、田宮氏の三高4年後輩にあたる野間宏氏の名作『真空地帯』である。野間氏は実際の軍隊体験があり、その描写も本当に凄い。軍隊生活の悲惨さを浮き彫りにしており、やはり私の父親の書斎にあった。映画も高校時代見た。

横須賀の海軍から帰還した父と、銃後を守っていた母のもとで、私は生まれた。だから父母からの言い伝えと、書斎の本(金子大尉が沖縄転戦する前のマリアナ沖海戦では、サイパン島の戦いの本もあって、それを夢中で読んだ覚えがある)から、戦争の悲惨さ、戦後の平和(真のものでなくても)の尊さを学んだのである。

さて軍隊という、非情で上下関係の徹底した機構の中では、新兵は繰り返し暴行、リンチを受ける。そうして「御国のために死ぬことは本望です」という人間へと練り上げられてゆく。彼らは「天皇陛下万歳!」と叫んで、敵陣に斬り込む。そして虫けらのように死んで行く。

この国家を「私」である軍医大尉と軍医長との対話から考えてみる。「国家をつくり出したのは、その中で生きている俺たちみたいな人間だが、国家は残酷に俺たちを殺すことが出来るのだ」「国家などというものを、人間はどうしてつくり出したのだ。もっとましなものを人間はつくれなかったのか」「文明という奴だよ、問題は‥」「文明がすすめばすすむほど、戦争は残虐性を増して行くのだ」。

だから不滅の神国ニッポンを少しも疑わない兵士たちは、同僚の兵曹長が「天皇陛下が、みなに降伏するよう命令を出されたのだ」と言っても信じない。懸命に説得し、いのちを大切にするよう勧める彼を、壕の中で銃を持った兵士が、無情にも至近距離から撃ち抜く。考える葦は許されないから、当然の事をしたとは言える。敗戦日8月15日の後の悲劇だった。

聖書によれば、それは文明のせいではない。上記対話にあるように、確かに人間が国家を作り出した。Ⅰサムエル8:5でイスラエルの民は「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」と預言者サムエルに要望した。サムエルにはそれは悪しき事だったが、主である神は聞き入れるよう命じ、こう言われた。「彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから」(8:7)。即ち神を拒む、神に背を向ける、それが聖書で言う「罪」なのだ。最初の人アダムが神に背いて罪を犯してから、ずっと人間は罪人として、悪の限りを尽くして来た。人間が進化して文明を作り出したのではない。人間の性質など、罪が入って以来何も変わっていない。国家が出来ても、人間は残酷な事を行い、今日に至っている。国民は生き抜いて戦争放棄した国の到来を喜んだのに、政権はまたもや躍起になって戦争の出来る国にしようとしている。

その軍隊の中では間近に迫っている「死」という大問題も、当然考える暇がない。マリアナ沖海戦からずっと死と隣り合わせだった軍医大尉は、自分一人に死が迫っている場合には、死の怖れを感じると告白する。しかしふと、こう漏らす。「私は、すでに生も死も感じることのない世界、死そのものの世界にいた‥すでにすべてのものがみなその同じ世界の中にいたのであった。死がすべてのものの前に立ちはだかった時、死の怖れは怖れではなくなるのである」。

この本の末尾近く、遂に軍医大尉である「私」は、医者仲間の軍医中尉らと共に壕を出て降伏する事を決心した。中尉はクリスチャンではなかったが、主の祈りを突然思い出し、「私」に知っているかどうか訊く。「主の祈りの中に、み国を来たらせたまえという文句があるんだ、今、俺には、その意味がわかったような気がするんだ、み国とは、今、俺たちがいるところなんだ」「生きてゆくことを、今、俺たちは自分で考えることが出来るようになったということだろうな、み国とはそういうところだったのだ」。

もっと言えば、イエス・キリストがこの世に来て、十字架上で死に、私たちの罪の問題を解決して下さった時、霊的意味ではみ国は到来している。故に主のご支配下にある私たち信徒は本当に自由であり、真の平和をさらに追い求める。偉大な逆説である。

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」(ヨハネ8:31-32)。国会図書館設立時の標語「真理がわれらを自由にするという確信に立つて、 憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、 ここに設立される。」は、この個所から採択された。

聖書によれば、まだ世界に真の平和は来ない。終末を迎え、イエスの支配される現実のみ国が来て成就し、世々限りなく続く。

一方「私」の答えは無い。終わりの3行、既にミイラ化していた死体の防暑服が、カサカサとはかない音を立てていたとだけある。その描写で「私」は自分の心境をどう表したかったのか?ブログ仲間の方々教えて欲しい。

日本の敗戦後初めてやってきた平和国家で、曲がりなりにも私たちは平和を享受し、軍隊のない、戦争のない国の中で自由を謳歌した。広島も長崎も敗戦記念日も忘れ去られようとしている今、その意義を伝えるのは、私たちの義務ではないか。