ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

本田徹氏の事

 「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし」(マタイ12:15)。 
 2013年6月18日のmm3493さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/mm3493/20130618#1371565000)の中に、本田医師の事が紹介されており、早速図書館で1冊借り読んでみました。

 本田徹医師は1947年生まれ、北海道大学医学部を卒業しました。年齢から学園闘争時代を経験した人である事が分かります。医局に残らず小樽の病院勤務をした後、青年海外協力隊員としてチュニジアに派遣され(1977〜79年)、そこで医療に携わりました。帰国後は長野県の佐久総合病院に行き、そこで有名な若月俊一先生の薫陶を受けています。本田医師の唱えるプライマリー・ヘルス・ケア(本田医師の簡単な説明では「それぞれの地域社会に一番ふさわしい手段や方法によって、『欠くことのできない保健のサービス』を実践してゆ」く事です)は、若月先生の影響をたぶんに受けていると思われます。詳しくはhttp://valuetrendnews.com/honda-touru-980参照。
 そして佐久の病院を辞めた後、東京に移動、2008年から台東区の浅草病院で名誉院長の一人として、今年4月の病院サイトを見ますと、内科一般で金曜午前に診察を行い、午後からは、山谷・山友クリニックを拠点に、その地区でボランティア活動をしています。
 本田医師がチュニジアで活動したのは、2年間、アフガンの中村哲医師とは対照的ですが、そこで得た事を基に書いたのが『文明の十字路から』という本です。氏は「二年間は短かったが、そこで見聞したものは、私の貧しい精神を、どんなにか耕してくれたことだろう」と謙虚に回顧しています。
 私は約40年前のチュニジアという国のやや詳しい事情を初めて、この本を通して知りました。乏しい知識としては長らくフランスの保護領で、戦後に独立し、初代首相としてブルギバがなった事、首都がチュニス位でした。
 そうした背景から本田医師はフランス語を繰り、文献その他もフランス語のものがこの本に登場しています。
 チュニジアは比較的穏健なイスラム教国であり、その事はこの本の冒頭部分でよく分かります。本田氏の解説では、このチュニジアアルジェリア、モロッコの広大な地域はマグレブ(日の沈む地方)と呼ばれ、ヨーロッパ・中近東・アフリカの三大地域を結ぶ十字路又は回廊の役目を果たして来ました。それが本の題名に反映されています。 
 多民族が混じり合っている地域では、人間の「無差別性」を謳うイスラム教が最適の宗教でした。ですからこの地域に住むユダヤ人も平和共存出来たのです。この本ではしばしばイスラム教の教えの事が出て来ますが、それはユダヤ教と一致する点も多々見られます。特に羊などを捧げる犠牲祭やその形骸化などは、旧約・新約でも出て来ます。
 本田医師が赴任した当時のチュニジアは勿論発展途上国でしたが、既に1957年、前年大統領となったブルギバが「身分法」を制定し、男女同権、一夫多妻制廃止など女性地位向上につとめ始めました。そしてプライマリー・ヘルス・ケアにも取り組み、本田医師はそれに大きな影響を受けています。そうした面では、むしろ先進国を抜く模範国だったかもしれません。西洋医学とは対照的でした。「もっぱら自らの利潤や覇権を極大化しようとする動機から乗り出していこうとする」西欧勢力のやり方に大いなる疑問を抱いた本田医師は、のちに「市民同士の国境を越えた連帯を基礎に、人類全体の健康や福祉、人権や人間の安全保障の実現、生態系の保存、持続可能な地域社会を築いていこうとする立場」を先鋭に打ち出しています。
 本田医師は2年間小児医療に関わりながら、様々な病気の統計的考察を行ない、その予防の為の努力を重ねて来ました。
 その苦闘の中、アラーの神に帰依する人々との出会いで、無宗教の本田医師も「信仰の問題は、究極的にそれを否定するにせよ肯定するにせよ、到底避けて通れるものではない」と思い至りつつ、帰国したのでした。
 その貴重な経験は現在の山谷地区でのボアンティア活動でも生かされています。
 既にTPPを先取りする形で、私立大学病院などでは富裕な人々を標的にしていて、貧しい人が十分な治療を受ける事が出来ません。しかし本田医師は「どんな人にも等しく医療を」というスローガンを掲げて、今日も奮闘しています。信頼する患者さんたちが多くいます。