ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ジョン・F・ケネディについて知っていると思っている5つの事への挑戦

 「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(コリント第一8:2)。
 2013年11月22日、米国大統領だったジョン・F・ケネディテキサス州ダラスで暗殺されてから50年を迎えました。朝日でも報じていましたが、ギャラップ調査によると、歴代大統領の中ではケネディが突出していて、平均以上というのが74パーセントも占めたそうです。
 12年前米国テキサス旅行に行きました。そのダラス郊外に私の教会の母教会があり、教会の人が車でいろいろ案内してくれましたが、その時犯人がケネディを暗殺したと言われるダラスの教科書倉庫に行きました。その5階は博物館になっており、頭に残ったとされる曲がった銃弾など多くのものが展示され、当時の状況を記録したビデオも見られます。開いている窓から下を覗いてみましたが、私たちがテレビで見るより、ずっと近い距離から犯人はライフルで撃ったのだなと思いました。

 この50周年にあたり、多くのサイトが特集を組んでいましたが、11月18日のワシントンポストサイトでは、上記の題でケネディの別の側面に光を当てていました。一般に流布している説へ疑問を投げかけています。
ケネディと副大統領ニクソンのテレビ討論がケネディを勝利に駆り立てた。
 テレビ討論は4回ありました。ケネディが有利だったのはこの第1回目だけで、あと3回はニクソンが巻き返しました。初回にケネディが得た高揚感は、選挙前日に失せていました。アイゼンハワーニクソンを支持し、大接戦となりました。結果はケネディ49.72パーセント、ニクソン49.55パーセントの得票率でした。
ケネディは改革主義者(=リベラル)だった。
 実際にはケネディは保守的な人で、出費や赤字に対して用心深い性質でした。それで税金の一括引き下げを支援しました。それは後に新自由主義者レーガンの減税に繋がりました。キューバ危機では完全にタカ派で、レーガンや他の共和党議員たちは彼に倣いました。また市民権運動にも消極的で、多くの運動家たちを挫折させました。
ケネディアメリカ人を月に上陸させる決断をした。
 ケネディは実際には宇宙飛行士たちを火星に送る事を望んでいましたが、不可能だと説得され諦めました。しかし月旅行への出費を渋りました。
ケネディ暗殺後、リンドン・ジョンソンは彼の政策を忠実に支持した。
 ケネディは彼は大きな支出、予算つぶしの福祉助成金を望みませんでした。しかしジョンソンはケネディとは対照的に貧しい家庭の生まれで、貧困対策に積極的に取り組むべく号令をかけました。ベトナム戦争は専らケネディではなく、ジョンソンの大幅な軍隊派遣と見られています。しかしケネディは軍事顧問団の規模を増大させた事で知られており、南西アジアには大規模な部隊を投入しました。
5五十年後私たちはケネディの暗殺について知り得る全てを知っている。
 それは違います。多くの政府文書が分別され隠ぺいされている為です。共和党のグループなどは、暗殺日に関して1,171ものCIAの文書があると推測しています。
 1992年ジョージ・H・Wブッシュ大統領は、議会に出された「ケネディ大統領暗殺記録収集法」にサインしたので、迅速な資料収集・機密あるいは公開扱いを決定し、国立公文書記録管理局に保管する事が義務付けられました。ケネディ暗殺についてのあらゆる残存文書は、2017年10月26日までに公開するよう求められています。機密文書の公開は米国でも日本でも論じられていますが、果たして次期大統領はどんな判断を下す事になるでしょうか。そして特定秘密保護法を強引に裁決しようとしている日本では?